# 数字と出典の一覧(1170億分の1) このアプリで表示する数字と、内部の計算に使っている数字の出典をまとめています。推計値はすべて「推計」として扱っています。 > **大前提**:Population Reference Bureau(PRB)自身が「人類が存在した期間の99%以上について、人口統計のデータは存在しない」("No demographic data exist for more than 99% of the span of human existence.")と述べています。このアプリの数字は、すべてこうした推計の上に成り立っています。 最終更新:2026年10月(フェーズ2) --- ## 1. 誕生年の抽選(時代別の出生数) 出典:Toshiko Kaneda & Carl Haub, "How Many People Have Ever Lived on Earth?", Population Reference Bureau, 2022年11月15日 https://www.prb.org/articles/how-many-people-have-ever-lived-on-earth/ | 期間 | 期首人口 | 期末人口 | 期間中の出生数 | |---|---|---|---| | 前190,000〜前50,000 | 2 | 2,000,000 | 7,856,100,000 | | 前50,000〜前8000 | 2,000,000 | 5,000,000 | 1,137,789,769 | | 前8000〜後1 | 5,000,000 | 300,000,000 | 46,025,332,354 | | 1〜1200 | 300,000,000 | 450,000,000 | 26,591,343,000 | | 1200〜1650 | 450,000,000 | 500,000,000 | 12,782,002,453 | | 1650〜1750 | 500,000,000 | 795,000,000 | 3,171,931,513 | | 1750〜1850 | 795,000,000 | 1,265,000,000 | 4,046,240,009 | | 1850〜1900 | 1,265,000,000 | 1,656,000,000 | 2,900,237,856 | | 1900〜1950 | 1,656,000,000 | 2,499,000,000 | 3,390,198,215 | | 1950〜2000 | 2,499,000,000 | 6,149,000,000 | 6,064,994,884 | | 2000〜2010 | 6,149,000,000 | 6,986,000,000 | 1,364,003,405 | | 2010〜2022 | 6,986,000,000 | 7,963,500,000 | 1,690,275,115 | - 合計:117,020,448,575人(PRB:「About 117 billion members of our species have ever been born on Earth.」) - 2022年に生きている人の割合:PRBの表現は「nearly 7%」。アプリでは「7%ほど」と表示。 - 期間内は人口が指数関数的に増えると仮定して年を抽選(`js/engine.js` の `sampleYear`)。この仮定はアプリ側のもの。 - 画面に出す計算値(PRBの表から計算) - 紀元前8000年〜西暦1年の出生:約460億人=全体の39.3%(「約4割」) - 西暦1〜1200年の出生:約266億人=全体の22.7%(「約2割」) - 1950年以降の出生:約91億人=全体の7.8%(「約8%」) - 「生まれた年の世界人口(推計)」:上の表の期首・期末人口を、期間内で指数関数的に補間した値 ## 2. 子どもの死亡率 - **Volk, A. A. & Atkinson, J. A. (2013).** "Infant and child death in the human environment of evolutionary adaptation." *Evolution and Human Behavior* 34(3): 182–192. - 狩猟採集社会:乳児死亡率 26.8%、思春期(15歳)までの死亡率 48.8% - 歴史上の社会:乳児死亡率 26.9%、思春期までの死亡率 46.2% - 両者をまとめた著者の推計:「約27%が1歳を迎えられず、約47.5%が思春期までに死亡」 - アプリの設定(近代以前):1歳未満の死亡 27%、1〜14歳の死亡(1歳まで生きた子のうち)28% → 15歳までの死亡 約47.4% - **Our World in Data**, Max Roser, "Mortality in the past: every second child died" https://ourworldindata.org/child-mortality-in-the-past - **Our World in Data**, "The short history of global living conditions": 1800年に生まれた子の約43%が5歳までに死亡 https://ourworldindata.org/a-history-of-global-living-conditions - ※BRIEFにあった「1950年に約22.5%」は確認できなかった。OWID の世界の値は1950年 24.7%(「約4人に1人」)。アプリではこちらを使う。 - **UN IGME, "Levels and trends in child mortality 2025"**(2026年3月公表):2024年の世界の5歳未満死亡率は出生1,000人あたり37.4、5歳未満の死亡は約490万人 https://data.unicef.org/resources/levels-and-trends-in-child-mortality-2025/ (現代の作り込みはフェーズ2) ## 3. 大人の死亡年齢の分布(内部の設定) - 近代以前の成人(15歳以上)の死亡年齢の分布は試作版の設定(15〜29歳 25、30〜44歳 30、45〜59歳 27、60〜74歳 15、75〜90歳 3 の重み)を使っている。 - この設定でシミュレーションすると、出生時の平均寿命は約22〜24年になる。これは次の推計の範囲に収まることを確認した。 - ローマ支配下のエジプトの国勢調査記録(1〜3世紀)から推計された出生時平均余命 22〜25年:Bagnall, R. S. & Frier, B. W. (1994) *The Demography of Roman Egypt*(Scheidel, W. (2007) "Demography", *Cambridge Economic History of the Greco-Roman World* による要約) - ローマ時代の出生時平均余命 20〜30年程度:Scheidel (2007) - 近代・現代の分布は試作版の設定のまま(フェーズ2で見直す)。 ## 4. 家族の生成(内部の設定・仮定) 画面に「数字」として出すものではないが、家族の人数や子どもの数を決めている設定。 | 項目 | 近代以前の設定 | 根拠 | |---|---|---| | 母親の結婚年齢 | 15〜19歳 | 仮定(地域差が大きい) | | 夫婦の年齢差 | 夫が1〜10歳上 | 仮定 | | 出産の間隔 | 2.0〜3.5年 | 仮定(授乳による間隔を想定) | | 最後の出産 | 42歳まで | 仮定 | | 出産1回あたりの母親の死亡 | 1.2% | Reid (2024):近代以前のイングランドの平均 120/10,000(1.2%) | - **Alice Reid (2024)** "How dangerous was childbirth in the past?", Cambridge Group for the History of Population and Social Structure (CAMPOP) blog https://www.campop.geog.cam.ac.uk/blog/2024/09/19/childbirth-in-the-past/ - 「Across the main pre-industrial period, average maternal mortality was 120 per 10,000 or 1.2 percent」 - 結婚した女性の生涯リスク:約5.6%(約18人に1人)(1550〜1800年) - 「あなた」は母親の出産のうちの1人として選ぶ。子どもの多い家ほど選ばれやすいよう、出生数で重みづけしている(実際の出生の分布に合わせるため)。 - シミュレーション結果(10万回):近代以前に45歳以上まで生きた既婚者の子どもは平均約7人、そのうち大人になったのは約3.5人。 ## 5. 地域の人口の割合 ### 古代(前8000〜後1年) 西暦1年前後の推計の比率を、古代全体に適用している(それ以前の地域別の推計は幅が非常に大きいため)。単位は百万人。 | 地域 | 値 | 内訳と出典 | |---|---|---| | 黄河・長江流域 | 59.6 | 中国(Maddison 2001/2016、西暦1年) | | インダス・ガンジス流域 | 75.0 | インド(同) | | メソポタミア | 14.8 | イラン 4.0 + その他の西アジア 15.1(Maddison)− 大シリア 4.3(Frier 2000、西暦14年) | | 地中海沿岸 | 30.8 | ギリシア 2.8 + アナトリア 8.2 + 大シリア 4.3 + イタリア 7.0 + イベリア 5.0 + マグリブ 3.5(Frier 2000、西暦14年) | | ナイル川流域 | 4.5 | エジプト(Frier 2000、西暦14年) | | アメリカ大陸 | 6.8 | 中南米 5.6 + 北米など 1.2(Maddison 2001、西暦1年) | - 地中海沿岸は東(15.3)と西(15.5)に分けて抽選。 - **含まれていない地域**:日本・朝鮮・東南アジア・中央アジア・北ヨーロッパ・東ヨーロッパ・サハラ以南のアフリカなど。BRIEFの地域指定に合わせ、これらの出生は上の6地域に比例して割り振っている(簡略化)。フェーズ2で地域を足すことを検討。 ### 中世(1〜1200年) Maddison の西暦1年と1000年の推計を線形に補間し、1000〜1200年は1000年の値を使う。単位は百万人。 | 地域 | 西暦1年 | 西暦1000年 | 出典 | |---|---|---|---| | 中国 | 59.6 | 59.0 | Maddison | | 日本 | 3.0 | 7.5 | Maddison | | インド | 75.0 | 75.0 | Maddison | | 西アジア | 25.2 | 20.3 | Maddison(イラン+トルコ+その他の西アジア) | | ヨーロッパ | 33.4 | 39.0 | Maddison(西ヨーロッパ+東ヨーロッパ・旧ソ連) | | アフリカ西部 | 8.5 | 17.0 | 下記の注 | | アンデス・メソアメリカ | 5.6 | 11.4 | Maddison(中南米) | - アフリカ西部:Maddison のアフリカ全体(16.5 → 33.0)から、北アフリカ(Frier の西暦14年のエジプト 4.5+マグリブ 3.5)を引いた値(8.5)を西暦1年とし、1000年も同じ比率(51.5%)と仮定した。サハラ以南のアフリカ全体をこの枠に割り当てている(簡略化)。 - 含まれていない地域(朝鮮、東南アジア、中央アジア、北アフリカ、東アフリカなど)の出生は、上の地域に比例して割り振っている。 - 中国の小地域(華北/江南)の比率は仮定(750年まで 70:30、751年以降 45:55。人口の重心が南へ移ったことを反映)。インド(北60:南40)、アンデス・メソアメリカ(55:45)、ヨーロッパの1〜450年(ローマ帝国内65:帝国外35、Frier と McEvedy & Jones の数字からの概算)も仮定を含む。 ### 出典 - **Angus Maddison (2001)** *The World Economy: A Millennial Perspective*, OECD Development Centre(Table 1-1, Appendix B)。アジアの国別の値は Maddison (2016) "Growth of World Population, GDP and GDP Per Capita before 1820"(Wikipedia "Demographics of Asia" の表で確認) - **Bruce W. Frier (2000)** "Demography", *Cambridge Ancient History* Vol. XI(Wikipedia "Demography of the Roman Empire" の表で確認) - **Colin McEvedy & Richard Jones (1978)** *Atlas of World Population History*(ヨーロッパ:西暦1年 3,100万人、600年 2,600万人、1000年 3,600万人) - BRIEFでは McEvedy & Jones を主な出典としていたが、アジア・アフリカ・アメリカの章を確認できなかったため、地域の比率は Maddison を主に使った。 ### 狩猟採集の時代(前19万〜前8000年) 地域別の人口推計は存在しないため、重みは**仮定**。出典があるのは「いつその地域に人が住みはじめたか」だけで、それに合わせて地域が現れるようにしている。 | 期間 | 重み(仮定) | 根拠となる年代 | |---|---|---| | 前19万〜前5万 | 東アフリカ 60・南アフリカ 40 | アフリカ外への本格的な拡散は約5万年前以降(ネアンデルタール人との混血の年代 約4.5〜4.9万年前:Sümer et al. 2025, Nature) | | 前5万〜前4.5万 | アフリカ 70・南アジア 20・東アジア 5・オーストラリア 5 | オーストラリア到達 約5万年前(6.5万年前説は議論あり:Clarkson et al. 2017) | | 前4.5万〜前1.6万 | アフリカ 45・南アジア 20・東アジア 15・ヨーロッパ 15・オーストラリア 5 | ヨーロッパ 4.5万年前以前(Hublin et al. 2020) | | 前1.6万〜前8000 | アフリカ 37・南アジア 18・東アジア 18・ヨーロッパ 14・オーストラリア 4・アメリカ 9 | アメリカ大陸 約1.6万年前(2.3万年前の足跡化石は議論あり:Pigati et al. 2023) | 狩猟採集の時代の出生の約87%は前5万年より前(PRB の表)なので、この時代に生まれた人のほとんどはアフリカで生まれる。 ### 近世(1200〜1750年) Maddison (2010/2016) の1000・1500・1600・1700年の推計(百万人)を線形補間(Wikipedia "Demographics of the world" / "Demographics of Asia" の表で確認。インドの行は同ページの誤りを他の表から訂正)。 | 地域 | 1000 | 1500 | 1600 | 1700 | |---|---|---|---|---| | 中国 | 59.0 | 103.0 | 160.0 | 138.0 | | 日本 | 7.5 | 15.4 | 18.5 | 27.0 | | インド | 75.0 | 110.0 | 135.0 | 165.0 | | 西アジア(トルコ・イラン・その他) | 20.3 | 17.8 | 21.4 | 20.8 | | ヨーロッパ(西・東・旧ソ連) | 39.0 | 87.7 | 111.4 | 126.8 | | アフリカ | 33.0 | 46.0 | 55.0 | 61.0 | | アメリカ大陸(中南米+アメリカ合衆国) | 12.7 | 19.5 | 10.1 | 13.05 | | 東南アジア(インドネシア・インドシナ・その他の東アジア) | 17.2 | 29.6 | 33.6 | 38.8 | 朝鮮・オセアニアなどは割り振りに含めていない。アフリカ・アメリカ大陸・東南アジアの中の小地域の重みは仮定(各ファイルの `_note`)。 ### 近代(1750〜1950年) Maddison の1700・1820・1870・1913・1950年の推計を線形補間。西アジアと東南アジアの1870年以降の内訳は、Maddison の「その他のアジア」を1820年の比率(東南アジア56%、西アジア28%)で按分した**仮定**。1950年のインドにはパキスタン・バングラデシュ(約7,500万人)を足している。 | 地域 | 1700 | 1820 | 1870 | 1913 | 1950 | |---|---|---|---|---|---| | 中国 | 138 | 381 | 358 | 437.1 | 546.8 | | 日本 | 27 | 31 | 34.4 | 51.7 | 83.6 | | 南アジア | 165 | 209 | 253 | 303.7 | 434 | | 西アジア | 20.8 | 25.2 | 33.5 | 51.8 | 89 | | ヨーロッパ | 126.8 | 224.1 | 328.5 | 496.8 | 572.4 | | アフリカ | 61 | 74.2 | 90.5 | 124.7 | 228.3 | | 中南米 | 12.05 | 21.2 | 40.0 | 80.5 | 165.8 | | 北アメリカ(アメリカ合衆国) | 1.0 | 10.0 | 40.2 | 97.6 | 152.3 | | 東南アジア | 38.8 | 50.4 | 67.0 | 103.7 | 178 | ### 現代(1950〜2022年) 人口ではなく**出生数**で重みをつけている。UN World Population Prospects 2024(Our World in Data "Annual number of births by world region" 経由)の1950・1970・1990・2010・2020年の年間出生数(百万人)を線形補間。サハラ以南と北アフリカの内訳、アジアの残り(東南アジア・南アジアのその他・西アジア)の内訳は、1950〜2020年の合計の比率で按分した**推計**。 | 地域 | 1950 | 1970 | 1990 | 2010 | 2020 | |---|---|---|---|---|---| | サハラ以南アフリカ | 9.04 | 14.25 | 22.43 | 32.98 | 36.87 | | 西アジア・北アフリカ | 3.85 | 5.98 | 8.40 | 10.69 | 11.38 | | 南アジア | 21.04 | 30.53 | 39.18 | 38.30 | 34.60 | | 中国 | 22.29 | 31.46 | 28.08 | 17.91 | 11.84 | | 日本 | 2.46 | 1.95 | 1.18 | 1.07 | 0.84 | | 東南アジア | 6.42 | 9.84 | 12.28 | 12.71 | 12.40 | | 中南米 | 7.30 | 10.47 | 12.00 | 10.80 | 9.66 | | 北アメリカ | 4.06 | 4.25 | 4.58 | 4.36 | 4.01 | | ヨーロッパ | 12.17 | 10.56 | 9.34 | 8.24 | 6.95 | ## 5-2. 近代・現代の死亡率と出生率(地域と年で変わる) 近代以降は、地域と年ごとに次の3つの系列を使って死亡と出生を決める(`common.json` の `q5` `e0` `tfr`)。値の間は線形補間。 - **5歳未満で亡くなる割合(q5)**:Our World in Data "Child mortality rate"(Gapminder と UN IGME)。地域の値は代表的な国の値から概算(ヨーロッパ:スウェーデン・イギリス・フランス・ロシア、西アジア:エジプト・トルコ・イラン、中南米:メキシコ・ブラジル、東南アジア:インドネシア・フィリピン、サハラ以南:ナイジェリアとアフリカ全体、2024年は WHO の 71.6‰)。1900年以前でデータがない地域は、世界の値(1800年 42.8%、1900年 40.9%)を**仮定**として使った。 - **出生時の平均余命(e0)**:Our World in Data "Life expectancy"(Riley 2005、UN WPP 2024 など)。大人の死亡年齢の分布は、この平均余命に合うように、近代以前の分布と現代の分布を混ぜてつくる。シミュレーションの平均余命は、確認したすべての地域・年で実際の値との差が約2年以内。 - **合計特殊出生率(tfr)**:1950年以降は Our World in Data "Fertility rate"(UN WPP 2024)。1950年以前は、スウェーデン・アメリカ(Haines)などの一部を除き確認できなかったため、**仮定**(ヨーロッパ 1800年 4.8 など)。 - 1歳未満の死亡は5歳未満の死亡の65〜77%、1〜14歳の死亡は1〜4歳の死亡の1.5倍とする近似を使っている(内部の設定)。 - お産1回あたりの母親の死亡は、子どもの死亡水準に合わせて約0.05〜0.95%の間で変える近似(内部の設定)。1800年のスウェーデン(出産10万件あたり約900人)や2020年の世界(223人)に近い値になる。 - 飢饉・移住などの選択肢での死亡の危険も、その時代と地域の死亡水準に合わせて小さくしている(内部の設定)。 ## 6. 画面に出す地域ごとの数字 | 数字 | 出典 | |---|---| | 前漢の西暦2年の戸籍 57,671,400人 | Nishijima (1986), *Cambridge History of China* Vol. 1, pp. 595–96(Wikipedia "Census in China" 経由) | | 唐の8世紀なかばの戸籍 52,919,309人、安史の乱後 約1,690万人 | Wikipedia "An Lushan rebellion"、Rockhill (1904)。年(754〜756年)は資料により異なるため「8世紀なかば」と表記 | | 西暦1年ごろの中国 約6,000万人、1000年ごろ 約5,900万人 | Maddison (2001) | | 西暦1年・1000年のインド 約7,500万人(世界の4分の1〜3割) | Maddison (2001)。Maddison の世界合計(2億3,080万人、2億6,830万人)に対しては約3割、PRB の世界人口(約3億人)に対しては約4分の1 | | アショーカ王:カリンガで10万人が殺され、15万人が連れ去られた | アショーカ王 第13磨崖法勅(碑文の記述) | | 西アジア 約2,500万人 → 約2,000万人 | Maddison (2001) | | 最古の文字のひとつ(紀元前3200年ごろ、メソポタミア) | Britannica "cuneiform" / "Uruk" | | ローマ帝国の人口 約4,550万人(西暦14年)、エジプト 約450万人 | Frier (2000) | | ローマ時代の平均寿命 20〜30年 | Scheidel (2007) | | ローマ支配下のエジプトの平均寿命 22〜25年 | Bagnall & Frier (1994) | | アテネの疫病で住民の約4分の1が死亡 | Littman, R. J. (2009) "The Plague of Athens: Epidemiology and Paleopathology", *Mount Sinai Journal of Medicine* | | トウモロコシの栽培化 約9,000年前 | Smithsonian Magazine (2018) | | 中南米 約560万人 → 約1,140万人 | Maddison (2001) | | 715〜739年の日本の人口 580万〜640万人 | W. W. Farris (2009) *Daily Life and Demographics in Ancient Japan*, p. 19 | | 735〜737年の天然痘で人口の25〜35%(約3分の1とも)が死亡 | Farris (1985) *Population, Disease, and Land in Early Japan, 645–900*, pp. 65–66(Wikipedia 経由) | | 950年ごろの日本 440万〜560万人 | Farris (2009)(Wikipedia "Demographic history of Japan before the Meiji Restoration" 経由)。※地域の抽選の重みは他地域とそろえるため Maddison(1000年 750万人)を使っており、Farris の推計より高めになっている | | アムワースの疫病 約2万5,000人 | 伝統的な史料による(Wikipedia "Plague of Amwas") | | アントニヌスの疫病で帝国の約1割(2〜33%) | Wikipedia "Antonine Plague"(推計の幅を併記) | | ヨーロッパ 3,100万人 → 2,600万人 → 3,600万人 | McEvedy & Jones (1978) | | アフリカ 1,650万人 → 3,300万人 | Maddison (2001) | | テオティワカン 12万5,000〜20万人(400年ごろ)、600〜800年ごろ 3万人以下 | The Metropolitan Museum of Art, "Teotihuacan" essay | ## 7. 共通の統計(どの地域でも出るもの) | 数字 | 出典 | |---|---| | 近代以前、約4人に1人が1歳を迎えられなかった | Volk & Atkinson (2013) | | 近代以前、子どものおよそ半数が大人になる前に死亡 | Volk & Atkinson (2013)/Our World in Data | | 1820年でも、読み書きできたのは約10人に1人 | Our World in Data "A history of global living conditions"(「In 1820, only every tenth person older than 15 years was literate」) | | お産1回あたり約1.2%、結婚した女性の約18人に1人 | Reid (2024), CAMPOP | ## 8. 歴史イベントの死亡率(内部の設定) イベントで亡くなる確率を設定しているのは、死亡率の推計が確認できたものだけ。 | イベント | 確率 | 根拠 | |---|---|---| | 735〜737年 日本の天然痘 | 25% | Farris (1985) の推計 25〜35% の下限 | | 165〜180年 アントニヌスの疫病(ローマ帝国内) | 10% | 推計の中央値(約10%) | | 前430〜前426年 アテネの疫病 | 25%(アテネにいた場合。発生確率15%) | Littman (2009) | それ以外の戦争・飢饉・疫病(ユスティニアヌスのペストなど)は、信頼できる死亡率の推計が確認できなかったため、出来事として記すだけにしている。 ## 9. 選択肢の結果の確率(内部の設定) 選択肢の成功率(例:文字を習えるか、移住が成功するか)は、ゲームとしての仮定。画面には確率の数字を出さない。文字を習える確率は「1820年でも約1割」(OWID)より低くなるよう、時代と地域ごとに1〜10%に設定している(女性はさらに低く設定。当時の多くの社会で女性が教育を受ける機会がより限られていたため)。 ## 10. 子孫の演出(フェーズ2で実装) **Rohde, D. L. T., Olson, S. & Chang, J. T. (2004).** "Modelling the recent common ancestry of all living humans." *Nature* 431: 562–566. - 現在生きているすべての人の最も新しい共通祖先(MRCA)は、モデルでは「数千年前」(保守的な設定で紀元前1415年、移動の多い設定で西暦55年) - 「同一祖先点」(それより前の人は、全員の祖先か、誰の祖先でもないかのどちらか)は、紀元前5353年〜紀元前2158年(設定による) - 著者の注意:移住率はよくわかっておらず、推計の精度は高くない。遺伝的な祖先ではなく系図上の祖先である。 - アプリでは「祖先かもしれない」という表現にとどめ、断定しない。 - 表示の条件:古代・中世・狩猟採集の時代の人生で、大人になった子どもか孫がいた場合。紀元前5400年ごろより前(同一祖先点のもっとも古い推計)なら「子孫が今まで続いていれば全員の祖先」という研究の推計を添え、紀元前の人生には共通祖先の年代の推計を添える。 ## 11. 歴史イベントの出典 フェーズ1の終わりに、全イベント(約156件)と統計(約51件)の年代と数字を見直し、11件を修正した(周の東遷 前771〜770年、十字軍の出発 1096年、三国時代の終わり 280年、隋末の反乱 611年〜、イフェの頭像を土製に限定、大化の改新・後期青銅器時代の崩壊・良渚の放棄の書き方を「〜と伝わる/〜ともいわれる」に変更など)。 各イベントの出典は `data/ja/*.json` の `hist[].src` に記録している。主に Britannica、Wikipedia(出典の明記された記事)、The Metropolitan Museum of Art、UNESCO、大学・研究機関の公開資料を使った。年代に議論があるものは「〜年ごろ」と表示し、文中で「〜とされる」「〜と伝わる」と書いている。 ## 付録:地域ごとの統計と歴史イベントの出典(自動生成) `node tools/sources.js` で `data/ja/*.json` から作っています。 ### 狩猟採集の時代(前190000〜前8001年) #### アフリカ東部のサバンナ(af1) 統計: - 紀元前19万年から紀元前5万年までに生まれた人は、推計で約78.6億人。人類史で生まれた人の約7%にあたる。 — PRB (2022) - 紀元前5万年から紀元前8000年までに生まれた人は、推計で約11.4億人。人類史で生まれた人の約1%にあたる。 — PRB (2022) - 狩猟採集の社会では、生まれた子の約27%(26.8%)が1歳を迎えられなかったと推計されている。 — Volk & Atkinson (2013) - 13万5,000〜7万5,000年前の東アフリカは厳しい乾燥期をくり返し、マラウイ湖の水の量が95%以上減った時期もあったとされる。 — Scholz et al. (2007) PNAS - 紀元前1万年の世界の人口は、約440万人と推計されている。 — HYDE 3.2 (Klein Goldewijk et al. 2017) 歴史イベント: - 前128000〜前118000年ごろ:雨の多い年が続き、砂の土地に大きな湖ができていた。草原には獣の群れがあふれていた。(緑のサハラ) — Larrasoaña et al. (2013) PLOS ONE; Wikipedia: African humid period - 前133000〜前73000年ごろ:雨の少ない年が続き、湖の岸は、年寄りが若かったころよりずっと遠くに下がっていた。このころの東アフリカは、厳しい乾燥期をくり返したとされる。(大干ばつの時代) — Scholz et al. (2007) PNAS: East African megadroughts between 135 and 75 thousand years ago - 前133000〜前73000年ごろ:雨季の雨が何年も足りず、草原の水場がいくつも消えていた。このころの東アフリカは、厳しい乾燥期をくり返したとされる。(大干ばつの時代) — Scholz et al. (2007) PNAS: East African megadroughts between 135 and 75 thousand years ago - 前68000〜前55000年ごろ:雨の多い年が続くようになっていた。干上がっていた水場にも、ふたたび水がたまっていた。(湿潤な時代への移り変わり) — Scholz et al. (2007) PNAS(約7万年前以降、熱帯アフリカの広い範囲で湿潤化) - 前68000〜前48000年ごろ:北の海辺へ移っていった群れが、戻ってこなかったという話を聞いた。このころ、アフリカを出て、アジアへ広がっていった人々がいたとされる。(出アフリカ) — Wikipedia: Recent African origin of modern humans(約7万〜5万年前の拡散) - 前39000〜前35000年ごろ:ダチョウの卵の殻を丸く磨いたビーズが、群れから群れへ贈られるようになっていた。(ケニアの岩陰エンカプネ・ヤ・ムト) — ScienceDaily (1998): Ambrose, Enkapune Ya Muto ostrich eggshell beads, about 40,000 years old - 前24500〜前17000年ごろ:雨が少なく、寒い年が続いた。北の砂漠は南へ広がり、高い山の頂は厚い氷におおわれていたとされる。(最終氷期最盛期) — Wikipedia: Last Glacial Maximum; Wikipedia: Last Glacial Period - 前15000〜前13000年ごろ:西の大きな湖が干上がり、湖の底だった土地を歩いて渡れるようになっていたと伝わった。(ヴィクトリア湖の干上がり) — The Conversation (2020): Lake Victoria dried up at 17,000 and 15,000 years ago - 前12600〜前11000年ごろ:南からの雨が年ごとに増え、砂の土地に草が生え、湖ができていった。(アフリカ湿潤期のはじまり) — Wikipedia: African humid period(約1万4,600〜1万4,500年前に始まる) - 前10900〜前9700年ごろ:雨の少ない年が増え、砂ぼこりの舞う日が多くなった。(ヤンガードリアス期) — Wikipedia: Younger Dryas(約1万2,900〜1万1,700年前。サハラ地域は乾燥し、風で運ばれる砂ぼこりが増えた) 設定の注記:小地域の重みは仮定(狩猟採集の時代の地域内の人口の推計は存在しない)。サバンナ60:高原と湖のほとり30。『緑のサハラ』は、サハラが草原と湖におおわれていたとされる時代(最終間氷期の湿潤期 約13万〜11万5,000年前、アフリカ湿潤期 約1万4,600年前〜)だけに出し、重み12とした(Larrasoaña et al. 2013, PLOS ONE/Wikipedia: African humid period)。 #### アフリカ南部の海辺(af1s) 統計: - 紀元前19万年から紀元前5万年までに生まれた人は、推計で約78.6億人。人類史で生まれた人の約7%にあたる。 — PRB (2022) - 紀元前5万年から紀元前8000年までに生まれた人は、推計で約11.4億人。人類史で生まれた人の約1%にあたる。 — PRB (2022) - 南アフリカのピナクル・ポイントでは、約16万4,000年前に人々が貝をとって食べていた跡が見つかっている。知られているかぎり、もっとも古い例のひとつとされる。 — NSF (2007): Marean et al., Nature 449 - ブロンボス洞窟では、穴をあけた小さな巻貝のビーズが70個以上見つかっている。約7万5,000年前のものとされる。 — Wikipedia: Blombos Cave(M1・上部M2層から70点以上のナッサリウス貝ビーズ。7万4,900〜7万2,500年前) - 寒い時代には海面が下がり、南アフリカ南岸の海岸線は、今より最大で90kmほど沖にあったとされる。 — ASU News (2020): Palaeo-Agulhas Plain 歴史イベント: - 前166000〜前160000年ごろ:寒く乾いた時代で、内陸の獲物が少なかった。群れは海辺の洞窟に住み、引き潮の磯で貝を拾うようになっていた。(ピナクル・ポイント) — NSF (2007): Marean et al., Pinnacle Point Cave 13B, about 164,000 years ago - 前100000〜前96000年ごろ:洞窟の奥で、赤い土を砕いて混ぜ、アワビの殻にためておく作業が行われていた。(ブロンボス洞窟の顔料づくり) — University of Bergen: Blombos Cave(約10万年前の顔料づくりの道具) - 前76000〜前72000年ごろ:小さな巻貝に穴をあけ、紐を通して身につける者が増えていた。(ブロンボス洞窟の貝のビーズ) — World Archaeology: Shell beads from Blombos Cave(約7万6,000年前) - 前73000〜前71000年ごろ:平らな石に、赤い土のかけらで交差する線を描く者がいた。(ブロンボス洞窟の線描) — University of Bergen: Blombos Cave(約7万3,000年前) - 前75000〜前71000年ごろ:岩陰の床に、スゲやイグサを敷き詰め、その上に虫よけになる木の葉を重ねて眠るようになっていた。(シブドゥの寝床) — ScienceDaily (2011): Wadley et al., Sibudu bedding 77,000–38,000 years ago - 前63000〜前60000年ごろ:小さな石の刃を樹脂で木の柄につけた矢で、獣を射る者たちがいた。(シブドゥの弓矢) — Stone Pages (2010): Lombard, Sibudu arrow points about 64,000 years ago - 前60000〜前56000年ごろ:水を入れて運ぶダチョウの卵の殻に、平行な線や格子の模様を刻む習わしが広まっていた。(ディープクルーフの卵殻) — Wikipedia: Diepkloof Rock Shelter(約6万年前) - 前24500〜前17000年ごろ:海がはるか沖まで引き、洞窟から浜まで何日も歩くようになっていた。そのあいだの草原を、獣の群れが行き来した。(最終氷期最盛期) — ASU News (2020): Palaeo-Agulhas Plain; Wikipedia: Last Glacial Maximum - 前24500〜前17000年ごろ:冬の寒さが厳しい時代だった。高い山の上には、雪が長く残った。(最終氷期最盛期) — Wikipedia: Last Glacial Maximum(南部アフリカの年平均気温は現在より約6℃低かった) - 前14000〜前9000年ごろ:海が少しずつ満ちてきて、獣の群れがいた低い草原が、海の下になっていった。 — ASU News (2020): Palaeo-Agulhas Plain(現在は海の下); Wikipedia: Last Glacial Maximum - 前9700〜前8000年ごろ:長い寒さの時代が終わり、冬はやわらいでいた。(完新世のはじまり) — Wikipedia: Younger Dryas(約1万1,700年前に終わる) 設定の注記:小地域の重みは仮定(地域内の人口の推計は存在しない)。南の海辺の洞窟(ケープ南岸:ピナクル・ポイント、ブロンボス洞窟、クラシーズ川など)65:東の海に近い森の岩陰(クワズール・ナタール:シブドゥ、ボーダー洞窟など)35。 #### 南アジアの森(sa1) 統計: - 紀元前5万年から紀元前8000年までに生まれた人は、推計で約11.4億人。人類史で生まれた人の約1%にあたる。 — PRB (2022) - 狩猟採集の社会では、生まれた子の約27%(26.8%)が1歳を迎えられなかったと推計されている。 — Volk & Atkinson (2013) - スリランカのファーヒエン洞窟では、約4万8,000年前の骨の矢じりが見つかっている。アフリカの外で知られる、もっとも古い弓矢の証拠とされる。 — Sci.News (2020): Langley et al., Science Advances - インド西部・中部の乾いた土地には、約4万〜2万5,000年前、ダチョウがすんでいたことがわかっている。 — India Bioscience (2017) - 紀元前1万年の世界の人口は、約440万人と推計されている。 — HYDE 3.2 (Klein Goldewijk et al. 2017) 歴史イベント: - 前47000〜前44000年ごろ:森の木の上のサルやリスを、骨の矢じりをつけた矢で射る狩りが行われていた。(ファーヒエン洞窟の弓矢) — Sci.News (2020): Langley et al., Science Advances(約4万8,000年前の骨の矢じり) - 前44000〜前40000年ごろ:川原の小石を割ってつくった、ごく小さな石の刃が使われていた。(ファーヒエン洞窟の細石器) — Sci.News (2019): Wedage et al., PLOS ONE(約4万5,000年前の細石器) - 前38000〜前23000年ごろ:西の乾いた平原には、まだダチョウの群れがいた。(インドのダチョウ) — India Bioscience (2017): ostrich eggshells in Rajasthan and Madhya Pradesh, 25,000–40,000 years old - 前34000〜前31000年ごろ:小さな石の刃をいくつも木の柄に並べてはめこむ道具が、あちこちの群れで使われるようになっていた。(細石器) — Wikipedia: Jwalapuram; Clarkson et al. (2009) Antiquity(約3万5,000年前からの細石器) - 前24500〜前17000年ごろ:海がずっと遠くまで引いていた。いまのインドとスリランカのあいだは、陸続きになっていたとされる。(最終氷期最盛期) — Wikipedia: Palk Strait; Wikipedia: Last Glacial Maximum(海面は約125m低かった) - 前15000〜前9000年ごろ:海が少しずつ満ちてきて、浜辺が年ごとに内陸へ寄ってきた。 — Wikipedia: Last Glacial Maximum(約2万〜1万9,000年前から氷が解けはじめた) - 前10900〜前9700年ごろ:暖かくなりかけていた気候が、ふたたび冷えこんだとされる。(ヤンガードリアス期) — Wikipedia: Younger Dryas(約1万2,900〜1万1,700年前) - 前9700〜前8000年ごろ:長い寒さの時代が終わり、暖かい年が続くようになった。(完新世のはじまり) — Wikipedia: Younger Dryas(約1万1,700年前に終わる) 設定の注記:小地域の重みは仮定(地域内の人口の推計は存在しない)。インドの森と川辺88:スリランカの雨林12。トバ火山の噴火(約7万4,000年前)は、この地域の時代(前5万年〜)より前なので扱っていない。現生人類が南アジアに来た年代には議論がある(Wikipedia: Recent African origin of modern humans)。 #### 東アジアの川辺(ea1) 統計: - 紀元前5万年から紀元前8000年までに生まれた人は、推計で約11.4億人。人類史で生まれた人の約1%にあたる。 — PRB (2022) - 紀元前1万年の世界の人口は、約440万人と推計されている。 — HYDE 3.2 (Klein Goldewijk et al. 2017) - 最終氷期最盛期(約2万6,500〜1万9,000年前)には、海面が今より約125m低かったとされる。 — Wikipedia: Last Glacial Maximum - 姶良(あいら)カルデラの大噴火(約3万年前)の灰は、九州と本州南部で32cm以上、関東平野でも約10cm積もったとされる。 — Wikipedia: Aira Caldera - 中国江西省の仙人洞(せんにんどう)で見つかった土器のかけらは、約2万〜1万9,000年前のものとされる。知られているかぎり、もっとも古い土器のひとつ。 — Wu et al. (2012) Science 歴史イベント: - 前35000〜前32000年ごろ:海の向こうの島から、黒く光る石(黒曜石)を舟で運んでくる者たちがいた。(神津島の黒曜石) — KAKEN 16K03165: Ikeya, Kozushima obsidian transported to Honshu 37–34 ka - 前30000〜前22000年ごろ:南の島々へ、舟で渡っていった人々がいたと伝わる。(琉球列島への渡海) — Wikipedia: Japanese Paleolithic(琉球列島に人が着いたのは約3万2,000〜2万4,000年前) - 前28200〜前27400年ごろ:南の大きな火の山が噴き上げた灰が、森にも川辺にも白く積もっていた。空が暗くなり、灰が何日も降り続いた日のことを、人々は語り継いだ。(姶良(あいら)カルデラの大噴火) — Wikipedia: Aira Caldera(29,428〜30,148 cal BP) - 前24500〜前17000年ごろ:冬は寒く乾いていた。北の土地では、木がほとんど見られなかった。(最終氷期最盛期) — Wikipedia: Last Glacial Maximum(中国北部は草原とツンドラ) - 前24500〜前17000年ごろ:乾いた寒い年が続き、山の森がまばらになっていった。(最終氷期最盛期) — Wikipedia: Last Glacial Maximum(中国南部は乾燥し、まばらな林になった) - 前24500〜前17000年ごろ:海がずっと遠くまで引き、かつての浜の先に、広い陸地が現れていた。(最終氷期最盛期) — Wikipedia: Last Glacial Maximum(海面は約125m低かった) - 前21000〜前20000年ごろ:南の島では、貝殻を削った釣り針で魚を釣っていると伝わった。(サキタリ洞の釣り針) — Smithsonian Magazine (2016): Sakitari Cave fishhooks, about 23,000 years old - 前18000〜前17000年ごろ:土をこねて焼いた器で、煮炊きをする群れがいた。(仙人洞の土器) — Wu et al. (2012) Science: Early pottery at 20,000 years ago in Xianrendong Cave, China - 前14500〜前13500年ごろ:土をこねて焼いた器で、木の実や魚を煮るようになっていた。(縄文土器のはじまり) — Wikipedia: Ōdai Yamamoto I Site(約1万6,500年前の土器) - 前15000〜前9000年ごろ:海が少しずつ満ちてきて、かつての浜は海の底になっていった。 — Wikipedia: Last Glacial Maximum(約2万〜1万9,000年前から氷が解けはじめた) - 前10900〜前9700年ごろ:雨の少ない、乾いた年が続いた。(ヤンガードリアス期) — Wikipedia: Younger Dryas(中国南部はきわめて乾燥した) - 前10900〜前9700年ごろ:暖かくなりかけていた気候が、ふたたび冷えこんだとされる。(ヤンガードリアス期) — Wikipedia: Younger Dryas(約1万2,900〜1万1,700年前) - 前9700〜前8000年ごろ:長い寒さの時代が終わり、冬がやわらいでいった。(完新世のはじまり) — Wikipedia: Younger Dryas(約1万1,700年前に終わる) 設定の注記:小地域の重みは仮定(地域内の人口の推計は存在しない)。中国北部40:中国南部45:日本列島15。日本列島は人が渡ってきたとされる約3万8,000年前(前3万6000年)以降だけに出す(東京大学 Biblioplaza: 海部陽介『サピエンス日本上陸』)。 #### 氷河期のヨーロッパ(eu1) 統計: - 前5万年から前8000年までに生まれた人は、推計で約11億4,000万人。人類史で生まれた人の約1%にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約200万人から約500万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - ネアンデルタール人と現生人類は、ヨーロッパで2,600〜5,400年ほど同じ時代を生きていたと推計されている。 — Higham et al. (2014) Nature / University of Oxford - 最終氷期最盛期(約2万6,000〜2万年前)には、海面が今より約125m低かった。 — Wikipedia: Last Glacial Maximum - ラスコー洞窟には、6,000近くの図像が残されている。 — Wikipedia: Lascaux 歴史イベント: - 前45000〜前37500年ごろ:近くの谷に、体つきの違う人々が暮らしていると聞いた。その姿は、しだいに見かけなくなっていったという。(ネアンデルタール人。約4万年前までに姿を消したとされる) — Higham et al. (2014) Nature(University of Oxford のプレスリリース:ネアンデルタール人の石器文化は41,030〜39,260年前に終わった) - 前37600〜前37500年ごろ:南の空が何日も暗くなり、細かい灰が降り積もったことがあった。そのあとの夏は寒かったという。(イタリア南部、カンパニアの火山の大噴火とされる) — Wikipedia: Campanian Ignimbrite eruption(約3万9,500年前、灰は約300万km²に広がった) - 前35500〜前33500年ごろ:川の谷の洞窟の奥に、ライオンやサイの姿が描かれていると聞いた。(ショーヴェ洞窟の壁画。最も古いものは約3万6,500年前とされる) — Wikipedia: Chauvet Cave - 前24500〜前17000年ごろ:年寄りたちの話では、昔はもっと北の谷にも群れが暮らしていた。いまは寒すぎて、誰も行かなくなったという。(最終氷期最盛期) — Wikipedia: Last Glacial Maximum - 前20000〜前15000年ごろ:丘の洞窟の奥に、ウマや野牛の絵が数えきれないほど描かれていると聞いた。(ラスコー洞窟の壁画。1万7,000〜2万2,000年前のものとされる) — Wikipedia: Lascaux - 前12750〜前12650年ごろ:年寄りたちが若いころより、冬がずっと短くなった。草原に木が増えはじめていた。(ベーリング・アレレード期の温暖化) — Wikipedia: Bølling–Allerød warming(14,690〜12,890年前) - 前11060〜前11050年ごろ:北の山が火を噴き、空から灰が降った。積もった灰で、大きな川がせき止められたと聞いた。(ラーハー湖の噴火) — Johannes Gutenberg-Universität Mainz (2020) / Wikipedia: Laacher See(約1万3,000年前) - 前10950〜前10850年ごろ:数十年のうちに、寒さが戻ってきた。広がりかけていた森が、また退いていった。(ヤンガードリアス期の寒冷化) — Wikipedia: Younger Dryas(約1万2,900〜1万1,700年前) - 前9800〜前9650年ごろ:冬が和らぎ、草原だった土地に森が広がりはじめた。(氷期の終わり、完新世のはじまり) — Wikipedia: Younger Dryas - 前8100〜前8001年ごろ:北の海辺の低い平原が、少しずつ海に沈みはじめていると聞いた。(ドッガーランドの水没) — Wikipedia: Doggerland(1万〜7,000年前に水没) 設定の注記:小地域の重み(西60:東40)は仮定。氷期の地域別人口の推計は存在しない。西は岩陰や洞窟の多い川の谷(いまのフランス・スペイン北部・ドイツ南部など)、東は木の少ない草原(いまのウクライナ・ロシア南部など)を想定。前9700年(完新世のはじまり、約1万1,700年前)を境に小地域の名前と暮らしを切り替える。年代は「〜年前」を西暦に換算した概数(approx)。 #### オーストラリア大陸(au1) 統計: - 前5万年から前8000年までに生まれた人は、推計で約11億4,000万人。人類史で生まれた人の約1%にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約200万人から約500万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - オーストラリア北部のマドジェベベの岩陰には、少なくとも5万年前から人が暮らしていたとされる。6万5,000年前とする研究もあるが、議論が続いている。 — Clarkson et al. (2017) Nature / Wikipedia: Madjedbebe - 西オーストラリア北部のカーペンターズ・ギャップでは、4万6,000〜4万9,000年前の、刃を磨いた石斧のかけらが見つかっている。知られているなかで最も古い。 — Hiscock et al. (2016) / Sci.News - 最終氷期最盛期(約2万6,000〜2万年前)には、海面が今より約125m低かった。 — Wikipedia: Last Glacial Maximum 歴史イベント: - 前46000〜前39000年ごろ:年寄りたちが若いころに見たという大きな獣(ディプロトドンなど)を、もうめったに見かけなくなった。(大型動物の絶滅。時期や原因には議論がある) — Wikipedia: Quaternary extinction event(オーストラリアでは約4万2,000年前が絶滅のピークとする推計) - 前40500〜前38500年ごろ:南へ続く陸地を歩いて、寒い南の土地(いまのタスマニア)へ移っていく群れがあると聞いた。 — Smithsonian Magazine (2024):タスマニアで約4万1,600年前の人の火の跡 - 前41000〜前38000年ごろ:湖のほとりでは、亡くなった人に赤い土をまき、手厚く葬っていた。(マンゴ湖の埋葬。約4万年前とされる) — Wikipedia: Lake Mungo remains - 前35000〜前34800年ごろ:南の土地で山が火を噴いたという話が、遠くの群れにまで伝わってきた。(ブジ・ビム火山の噴火。この噴火を語る物語が、いまもグンディッジマラの人々に伝わるとされる) — Wikipedia: Budj Bim(2020年の研究で約3万6,900年前) - 前24500〜前17000年ごろ:寒く乾いた時代が続き、水場が少なくなっていった。海は遠く、浜は今よりずっと沖にあった。(最終氷期最盛期) — Wikipedia: Last Glacial Maximum - 前14000〜前8001年ごろ:年寄りが若いころに歩いた海辺の平原が、海の下になったと聞いた。浜が少しずつ内陸に近づいてきていた。(氷期の終わりの海面上昇) — Wikipedia: Sahul - 前12100〜前11900年ごろ:湖に水を運んでいた川が流れなくなり、湖はしだいに干上がっていった。(ウィランドラ湖群) — Wikipedia: Lake Mungo(約1万4,000年前に流入河川が止まった) - 前10500〜前9500年ごろ:北西の岩陰に、飾りをつけた人の姿が細い線で描かれていると聞いた。(グウィオン・グウィオンの岩絵。年代には議論がある) — Wikipedia: Gwion Gwion rock paintings(2020年の研究で約1万2,000年前) 設定の注記:小地域の重み(海辺と川沿い60:内陸40)は仮定。氷期にはニューギニアやタスマニアと陸続きの大陸(サフル)だった。人が住みはじめた年代は少なくとも約5万年前とされ、6万5,000年前とする研究(マドジェベベ)には議論がある。アボリジナルの人々の文化は、特定の儀礼や物語の中身には立ち入らず、土地・歌・火・移動の暮らしとして書いた。犬(ディンゴ)は約3,500年前に来たとされるので出さない。 #### アメリカ大陸(am1) 統計: - 前5万年から前8000年までに生まれた人は、推計で約11億4,000万人。人類史で生まれた人の約1%にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約200万人から約500万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - ニューメキシコ州ホワイトサンズの人の足跡を、2万3,000〜2万1,000年前のものとする研究がある。年代には議論が続いている。 — USGS / Wikipedia: Settlement of the Americas - 北アメリカでは、氷期の終わりに約35属の大型動物が姿を消した。 — Wikipedia: Quaternary extinction event - クローヴィス文化の遺跡は、約1万3,050〜1万2,750年前のものとされる。 — Wikipedia: Clovis culture 歴史イベント: - 前15000〜前13000年ごろ:氷の消えた海岸づたいに、南へ下っていく群れがあると聞いた。(太平洋沿岸のルート) — Wikipedia: Settlement of the Americas(約1万7,000〜1万6,000年前から沿岸を通れたとされる) - 前12750〜前12650年ごろ:年寄りたちが若いころより、冬がずっと短くなった。氷が北へ退いていった。(ベーリング・アレレード期の温暖化) — Wikipedia: Bølling–Allerød warming(14,690〜12,890年前) - 前12300〜前11300年ごろ:北の二つの大きな氷のあいだに、人が通れる道が開けたと伝わった。(無氷回廊) — Wikipedia: Settlement of the Americas(約1万3,800±500年前に開いたとする研究) - 前12500〜前12000年ごろ:川沿いの谷に、獣の皮でおおった小屋が並ぶ野営地があると聞いた。(モンテ・ベルデ遺跡。約1万4,500年前とされるが、年代には議論がある) — Wikipedia: Monte Verde - 前11100〜前10800年ごろ:溝を彫りこんだ大きな石の槍先が、群れから群れへと広まっていった。(クローヴィス文化) — Wikipedia: Clovis culture(約1万3,050〜1万2,750年前) - 前10950〜前10850年ごろ:数十年のうちに寒さが戻り、冬が長くなった。(ヤンガードリアス期の寒冷化) — Wikipedia: Younger Dryas(約1万2,900〜1万1,700年前) - 前11800〜前9400年ごろ:マンモスやウマ、大きなラクダの群れは、年寄りたちが若かったころより、ずっと少なくなっていた。(大型動物の絶滅。原因には議論がある) — Wikipedia: Quaternary extinction event(北アメリカでは約1万3,800〜1万1,400年前) - 前10800〜前10200年ごろ:バイソンの群れを谷に追いこむ大がかりな狩りが、草原の群れのあいだで行われるようになった。(フォルサム文化) — Wikipedia: Folsom tradition(前1万800〜前1万200年ごろ) - 前11000〜前8001年ごろ:大きなナマケモノやゾウのなかまを、もうめったに見かけなくなった。(大型動物の絶滅。時期や原因には議論がある) — Wikipedia: Quaternary extinction event - 前9750〜前9650年ごろ:寒さがゆるみ、暖かい年が続くようになった。(氷期の終わり、完新世のはじまり) — Wikipedia: Younger Dryas - 前9200〜前8900年ごろ:北の果ての低い土地が、海に沈んでいったと伝わった。西の大陸へ歩いて渡る道は、もうなかった。(ベーリンジアの水没。約1万1,000年前とされる) — Wikipedia: Settlement of the Americas 設定の注記:小地域の重み(北55:南45)は仮定。南アメリカの小地域は前1万3000年から(モンテ・ベルデ遺跡の約1万4,500年前を目安。ただし2026年にこれをずっと新しいとする研究が出ており、議論がある)。ホワイトサンズの足跡(2万3,000〜2万1,000年前)など、より古い到達の説には議論があるため、統計の文としてのみ扱った。犬は約1万年前より古い確かな証拠がないため出さない。 ### 古代(前8000〜0年) #### 黄河・長江流域の村(ea2) 統計: - 紀元前8000年から西暦1年までに生まれた人は、推計で約460億人。人類史で生まれた人の約4割にあたる。 — PRB (2022) - 世界の人口は、紀元前8000年の約500万人から、西暦1年には約3億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 西暦1年ごろの中国の人口は、約6,000万人と推計されている。 — Maddison (2001) - 前漢の西暦2年の戸籍には、約5,767万人が記録されている。 — Nishijima (1986), Cambridge History of China Vol. 1 歴史イベント: - 前2350〜前2250年ごろ:長江の下流にあった大きな町(良渚)の人々が、町を離れていった。大水が続いたためともいわれる。 — UNESCO / Wikipedia: Archaeological Ruins of Liangzhu City - 前2200〜前1900年ごろ:天候の不順な年が長く続き、各地の村が衰えていったとされる。(紀元前2200年ごろの気候変動) — Wikipedia: 4.2-kiloyear event - 前1250〜前1050年ごろ:殷の都では、亀の甲羅や牛の骨に文字を刻んで占いをしているという話が伝わってきた。(甲骨文字) — Britannica: oracle bone - 前1046年ごろ:西から攻めてきた周が、殷(商)の王を倒した。(牧野の戦い) — Wikipedia: Battle of Muye - 前771〜前770年:都が攻め落とされて王が殺され、新しい王は東の洛邑へ移った。 — Wikipedia: Eastern Zhou - 前475〜前222年ごろ:国どうしの戦争が絶えず、村からも多くの男が兵に取られていった。(戦国時代) — Britannica: Warring States - 前260年:長平で秦と趙の大軍がぶつかり、趙の兵が大勢殺されたという話が伝わってきた。(長平の戦い) — Wikipedia: Battle of Changping - 前221年:秦の王が国々をひとつにまとめ、始皇帝を名乗った。文字や升・はかりが統一された。 — Britannica: Qin dynasty - 前214〜前210年ごろ:北の守りの長城を築くため、各地から大勢の人が工事に駆り出された。 — Wikipedia: Chu–Han Contention / Great Wall - 前209〜前202年:秦に対する反乱が各地で起き、国じゅうが戦乱になった。やがて漢が天下を取った。 — Wikipedia: Chu–Han Contention - 前132〜前109年:瓠子(こし)で切れた黄河の堤がふさがらず、下流の村々は何年も水につかっていた。 — Wikipedia: 132 BC Yellow River flood #### インダス・ガンジス流域の村(sa2) 統計: - 紀元前8000年から西暦1年までに生まれた人は、推計で約460億人。人類史で生まれた人の約4割にあたる。 — PRB (2022) - 世界の人口は、紀元前8000年の約500万人から、西暦1年には約3億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 西暦1年ごろのインドの人口は、約7,500万人と推計されている。当時の世界でもっとも人の多い地域のひとつだった。 — Maddison (2001) - アショーカ王の岩の碑文には、カリンガとの戦争で10万人が殺され、15万人が連れ去られたと記されている。 — アショーカ王 第13磨崖法勅 歴史イベント: - 前2600〜前1900年ごろ:インダス川の流域には、焼きれんがの大きな町がいくつもあった。(インダス文明) — Britannica: Indus civilization - 前2100〜前1900年ごろ:雨季の雨が弱い年が長く続き、大きな町から人が少しずつ去っていったとされる。 — Scientific American (2014) - 前1500〜前1400年ごろ:北西から牛を連れた人々がやってきて、新しいことばと祭りが広まっていったとされる。(ヴェーダ時代のはじまり) — Wikipedia: Indo-Aryan migrations - 前650〜前450年ごろ:ガンジス川の流域に、新しい国や町が次々に生まれていた。(十六大国の時代) — Wikipedia: Mahajanapadas - 前480〜前400年ごろ:東の国で、ブッダと呼ばれる人が新しい教えを説いているという話が伝わってきた。 — Britannica: Buddha - 前518年ごろ:西のペルシアの王が、インダス川の流域を支配下に置き、貢ぎものを求めた。 — Wikipedia: Achaemenid conquest of the Indus Valley - 前326〜前325年:西から来たアレクサンドロスの軍勢が、インダス川の流域で戦った。 — Britannica: Alexander the Great - 前321年ごろ:チャンドラグプタが国々をまとめ、マウリヤ朝が生まれた。 — Britannica: Mauryan empire - 前261年ごろ:アショーカ王の軍が、東のカリンガ国を攻めた。多くの人が殺され、連れ去られたと伝わった。 — Ashoka Rock Edict XIII / Wikipedia: Kalinga War - 前260〜前232年ごろ:アショーカ王が、殺生を戒め、人々をいたわる言葉を、岩や石柱に刻ませた。 — Britannica: Ashoka - 前185年ごろ:マウリヤ朝の最後の王が倒され、国は分かれていった。 — Wikipedia: Maurya Empire - 前180〜前10年ごろ:北西から、ギリシア系の王や中央アジアのサカ人が次々に入ってきた。 — Wikipedia: Indo-Greek Kingdom #### メソポタミアの村(wa2) 統計: - 紀元前8000年から西暦1年までに生まれた人は、推計で約460億人。人類史で生まれた人の約4割にあたる。 — PRB (2022) - 世界の人口は、紀元前8000年の約500万人から、西暦1年には約3億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 知られているかぎり最も古い文字のひとつは、紀元前3200年ごろ、メソポタミアの神殿で記録のために使われはじめた。 — Britannica: cuneiform - 西暦1年ごろの西アジア全体の人口は、約2,500万人と推計されている。 — Maddison (2001) 歴史イベント: - 前3500〜前3100年ごろ:南の町ウルクが大きくなり、神殿のまわりに大勢の人が暮らすようになっていた。 — Britannica: Uruk - 前3200〜前3000年ごろ:神殿で、粘土板に印を刻んで穀物や家畜を記録するようになったと聞いた。(文字のはじまり) — Britannica: Uruk / cuneiform - 前2334〜前2280年ごろ:アッカドのサルゴン王が、メソポタミアの町々を次々に従えていった。 — Britannica: Sargon - 前2200〜前2100年ごろ:日照りの年が続いたとされ、アッカドの国は崩れていった。東の山からは、グティ人が入りこんできていた。 — Wikipedia: 4.2-kiloyear event / Akkadian Empire - 前2100〜前2010年ごろ:ウルの王が国をまとめ、役人が人々の働きと配給を細かく記録していた。(ウル第三王朝) — Wikipedia: Third Dynasty of Ur - 前2004年ごろ:東のエラム人が、ウルの町を攻め落とした。 — Wikipedia: Third Dynasty of Ur - 前1760〜前1750年ごろ:バビロンのハンムラビ王が国々を従え、法を石碑に刻ませた。 — Britannica: Hammurabi - 前1595年ごろ:北のヒッタイトの王がバビロンを攻め落とした。 — Wikipedia: Mursili I - 前850〜前640年ごろ:アッシリアの王の軍が各地を攻め、征服した土地の人々を遠くへ移り住ませていた。 — Wikipedia: Neo-Assyrian Empire - 前689年:アッシリアの王センナケリブが、バビロンを攻め壊した。 — Wikipedia: Neo-Assyrian Empire - 前612年:バビロニアとメディアの軍が、アッシリアの都ニネヴェを攻め落とした。 — Wikipedia: Battle of Nineveh (612 BC) - 前539年:ペルシアのキュロス王が、バビロンに入城した。 — Wikipedia: Fall of Babylon - 前331年:ガウガメラの戦いで勝ったアレクサンドロスが、バビロンに入った。 — Britannica: Alexander the Great - 前141年:東から来たパルティアが、バビロニアを支配下に置いた。 — Wikipedia: Fall of Babylon #### 地中海沿岸の村(me2) 統計: - 紀元前8000年から西暦1年までに生まれた人は、推計で約460億人。人類史で生まれた人の約4割にあたる。 — PRB (2022) - 世界の人口は、紀元前8000年の約500万人から、西暦1年には約3億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 西暦14年ごろのローマ帝国の人口は、約4,550万人と推計されている。 — Frier (2000) - ローマ時代の人々の平均寿命は、生まれたときで20〜30年ほどだったと推計されている。 — Scheidel (2007) - 紀元前430年からのアテネの疫病では、住民の約4分の1が亡くなったと推計されている。 — Littman (2009) 歴史イベント: - 前1600〜前1525年ごろ:南の海の島(テラ島)で、山が大きく噴火したと伝わった。 — University of Arizona (2018) - 前1200〜前1150年ごろ:各地の宮殿や町が焼け落ちた。海から来た人々の襲撃もあったと伝わる。(後期青銅器時代の崩壊) — Wikipedia: Late Bronze Age collapse - 前800〜前550年ごろ:海の向こうに新しい町(植民市)をつくるため、若者たちが船で旅立っていった。 — Wikipedia: Greek colonisation - 前722年:アッシリアの軍がサマリアを攻め落とし、多くの人を遠くへ移り住ませた。 — Wikipedia: Kingdom of Israel (Samaria) - 前587年ごろ:バビロニアの軍がエルサレムを攻め壊し、多くの人がバビロンへ連れていかれた。 — Britannica: Babylonian Exile - 前480〜前479年:ペルシアの大軍がギリシアに攻め入り、アテネの町が焼かれた。 — Britannica: Greco-Persian Wars - 前430〜前426年:アテネの町で疫病が広がり、多くの人が亡くなった。(この出来事で亡くなる確率 25%) — Littman (2009) / Wikipedia: Plague of Athens - 前431〜前404年ごろ:アテネとスパルタの長い戦争が続いた。(ペロポネソス戦争) — Britannica: Peloponnesian War - 前334〜前330年:マケドニアのアレクサンドロスが、東へ向かう大遠征に出ていた。 — Britannica: Alexander the Great - 前264〜前146年ごろ:ローマとカルタゴの戦争が続いた。(ポエニ戦争) — Britannica: Punic Wars - 前218〜前216年:カルタゴのハンニバルが、アルプスを越えてイタリアに攻め入った。 — Britannica: Punic Wars - 前146年:ローマが、カルタゴとコリントスの町を攻め滅ぼした。 — Britannica: Punic Wars - 前49〜前31年ごろ:ローマで内戦が続いた。 — Britannica: Roman Republic - 前43〜前42年:夏になっても寒い年が続き、作物がよく実らなかった。 — Desert Research Institute (2020) #### ナイル川流域の村(nl2) 統計: - 紀元前8000年から西暦1年までに生まれた人は、推計で約460億人。人類史で生まれた人の約4割にあたる。 — PRB (2022) - 世界の人口は、紀元前8000年の約500万人から、西暦1年には約3億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 西暦14年ごろのエジプトの人口は、約450万人と推計されている。 — Frier (2000) - 少しあとのローマ支配下のエジプト(1〜3世紀)の国勢調査の記録からは、生まれたときの平均寿命は22〜25年ほどと推計されている。 — Bagnall & Frier (1994) 歴史イベント: - 前3100年ごろ:上エジプトと下エジプトが、ひとりの王のもとにまとめられた。 — Britannica: ancient Egypt - 前2580〜前2560年ごろ:王の大きなピラミッドを築くため、各地から大勢の人が働きに集められた。 — Britannica: Pyramids of Giza - 前2181〜前2055年ごろ:王の力が弱まり、ナイル川の水が少ない年が続いて、各地で飢えが広がったと伝わる。(第1中間期) — Wikipedia: First Intermediate Period of Egypt - 前1650〜前1560年ごろ:北のデルタを、東から来たヒクソスの王たちが治めていた。 — Wikipedia: Hyksos - 前1550年ごろ:テーベのイアフメス王が、ヒクソスを追い出した。 — Wikipedia: Hyksos - 前1350〜前1336年ごろ:王アクエンアテンが、太陽神アテンだけをあがめるよう命じ、新しい都をつくった。 — Britannica: Akhenaten - 前1177年ごろ:ラメセス3世の軍が、海から来た人々の襲撃を退けた。 — Wikipedia: Sea Peoples / Battle of the Delta - 前1158年ごろ:王墓をつくる職人たちが、配給の穀物が届かないことに抗議して仕事を止めた。記録に残るなかで最も古いストライキとされる。 — Wikipedia: Deir el-Medina strikes - 前663年:アッシリアの軍が、南の都テーベを攻め落とした。 — Wikipedia: Twenty-fifth Dynasty of Egypt - 前525年:ペルシアの軍がエジプトに攻め入り、王の軍を破った。 — Wikipedia: Battle of Pelusium (525 BC) - 前332〜前331年:アレクサンドロスがエジプトに入り、海辺に新しい都アレクサンドリアがつくられた。 — Britannica: Alexander the Great - 前43〜前41年:ナイル川の水がほとんど増えない年が続き、飢えと病が広がった。 — Desert Research Institute (2020) - 前30年:ローマがエジプトを支配下に置いた。最後の女王クレオパトラは亡くなった。 — Britannica: ancient Egypt #### アメリカ大陸の村(am2) 統計: - 紀元前8000年から西暦1年までに生まれた人は、推計で約460億人。人類史で生まれた人の約4割にあたる。 — PRB (2022) - 世界の人口は、紀元前8000年の約500万人から、西暦1年には約3億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - トウモロコシは、約9,000年前に、いまのメキシコで野生の植物から栽培されはじめたとされる。 — Smithsonian Magazine (2018) - 西暦1年ごろの中南米の人口は、約560万人と推計されている。 — Maddison (2001) 歴史イベント: - 前2600〜前2000年ごろ:海に近い谷に、大きな石の基壇をもつ町(カラル)が栄えていた。 — Wikipedia: Caral - 前1200〜前900年ごろ:東の湿った低地に、巨大な石の頭像をつくる人々(オルメカ)の祭りの中心地が栄えていた。 — Britannica: Olmec - 前900〜前200年ごろ:山の中の神殿(チャビン・デ・ワンタル)の神をあがめる教えが、各地に広まっていった。 — Britannica: Chavin - 前500年ごろ:オアハカの山の上に、新しい大きな町(モンテ・アルバン)が築かれた。 — Wikipedia: Monte Albán - 前300〜前150年ごろ:南の森の中に、巨大なピラミッドをもつ町(エル・ミラドール)が栄えていた。 — Wikipedia: El Mirador - 前100〜前1年ごろ:メキシコ盆地で、のちの大都市テオティワカンが大きくなりはじめていた。 — The Met: Teotihuacan ### 中世(1〜1199年) #### 中国の農村(ea3) 統計: - 西暦1年から1200年までに生まれた人は、推計で約266億人。人類史で生まれた人の約2割にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約3億人から約4億5,000万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 前漢の西暦2年の戸籍には、約5,767万人が記録されている。 — Nishijima (1986), Cambridge History of China Vol. 1 - 8世紀なかばの唐の戸籍には、約5,292万人が記録されている。安史の乱のあと、戸籍の人口は約1,690万人にまで減った。戦乱で戸籍が機能しなくなったためと考えられている。 — Wikipedia: An Lushan rebellion - 西暦1000年ごろの中国の人口は、約5,900万人と推計されている。 — Maddison (2001) 歴史イベント: - 11年:黄河が大きく流れを変え、多くの村が水に沈んだ。 — Wikipedia: Xin dynasty - 17〜25年ごろ:飢えた農民たちが各地で立ち上がり、王莽の新が倒れた。(赤眉の乱など) — Wikipedia: Xin dynasty - 184〜185年:黄色い頭巾をつけた人々の反乱が、各地で起きた。(黄巾の乱) — Wikipedia: Yellow Turban Rebellion - 220〜280年ごろ:漢が滅んだあと、国は三つに分かれて争っていた。(三国時代) — Wikipedia: Yellow Turban Rebellion / Three Kingdoms - 311年:北方の匈奴の軍が都の洛陽を攻め落とした。多くの人が南へ逃れていった。(永嘉の乱) — Wikipedia: Disaster of Yongjia - 536〜537年:夏に雪や霜が降りるほどの異常な寒さで、作物が実らなかった。 — Wikipedia: Volcanic winter of 536 - 589年:隋が南北の国をひとつにまとめた。 — Wikipedia: Sui dynasty - 605〜610年:大運河の工事のため、多くの人が労役に駆り出された。 — Wikipedia: Sui dynasty - 611〜618年:遠征と重い労役に苦しんだ人々が各地で反乱を起こした。618年、唐が建てられた。 — Wikipedia: Sui dynasty - 755〜763年:安禄山が反乱を起こし、国じゅうが戦乱に巻きこまれた。(安史の乱) — Wikipedia: An Lushan rebellion - 875〜884年:黄巣の反乱軍が、各地を荒らしまわった。(黄巣の乱) — Wikipedia: Guangzhou massacre / Huang Chao - 907〜960年ごろ:唐が滅んだあと、短い王朝が次々に入れ替わっていた。(五代十国) — Britannica: Five Dynasties - 960年:宋が建てられた。やがて国はふたたびひとつにまとまった。 — Britannica: Song dynasty - 1012〜1030年ごろ:日照りに強い早稲(占城稲)の種が配られ、田んぼに広まっていった。 — Wikipedia: Champa rice - 1048年:黄河が北へ大きく流れを変え、多くの村が水に沈んだ。 — Wikipedia: 1048 Yellow River flood - 1127年:北方の金の軍が都の開封を攻め落とし、宋の朝廷は南へ逃れた。(靖康の変) — Wikipedia: Jingkang incident #### 日本の農村(jp3) 統計: - 西暦1年から1200年までに生まれた人は、推計で約266億人。人類史で生まれた人の約2割にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約3億人から約4億5,000万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 8世紀前半(715〜739年ごろ)の日本の人口は、580万〜640万人ほどと推計されている。 — Farris (2009) - 735〜737年の天然痘の流行では、日本の人口の25〜35%(約3分の1とも)が亡くなったと推計されている。 — Farris (1985) - 950年ごろの日本の人口は、440万〜560万人ほどと推計されている。 — Farris (2009) / Wikipedia: Demographic history of Japan before the Meiji Restoration 歴史イベント: - 57年:九州北部の奴国の王が、海の向こうの漢に使いを送ったという話が伝わった。 — 後漢書 東夷伝 - 146〜189年ごろ:倭の国々のあいだで、長い争いが続いたと伝わる。(倭国大乱) — 後漢書 東夷伝 - 239年:邪馬台国の女王卑弥呼が、海の向こうの魏に使いを送ったと伝わった。 — Wikipedia: Himiko - 300〜500年ごろ:近くに豪族の大きな古墳が築かれ、村からも働き手が出された。 — Britannica: Kofun period - 538〜552年ごろ:海の向こうの百済から、仏の教えが伝わったという話が広まった。 — World History Encyclopedia: Buddhism in Ancient Japan - 645〜646年:都で政変があり、土地と人を国が治める新しいしくみをめざす改革が始められたと伝わる。(大化の改新) — Britannica: Taika reforms - 663年:海の向こうの白村江で、倭の軍が大敗したと伝わった。 — Wikipedia: Battle of Baekgang - 672年:皇位をめぐって、国を二分する大きな戦が起きた。(壬申の乱) — Wikipedia: Jinshin War - 735〜737年:天然痘が九州から広がり、都でも村でも多くの人が亡くなった。(この出来事で亡くなる確率 25%) — Farris (1985) / Wikipedia: 735–737 Japanese smallpox epidemic - 745〜752年:奈良の都で大仏をつくるため、各地から人や銅が集められた。 — Wikipedia: Tōdai-ji - 869年:陸奥の国で大きな地震と津波が起き、多くの人が亡くなったと伝わった。(貞観地震) — Wikipedia: 869 Jōgan earthquake - 939〜940年:東国で平将門が反乱を起こした。 — Wikipedia: Taira no Masakado - 1180〜1182年:日照りと戦乱が重なり、都でも村でも多くの人が飢えて亡くなった。(養和の飢饉) — Wikipedia: Yōwa famine - 1180〜1185年:源氏と平氏の戦が、国じゅうに広がった。(源平の戦い) — Wikipedia: Genpei War #### インドの農村(sa3) 統計: - 西暦1年から1200年までに生まれた人は、推計で約266億人。人類史で生まれた人の約2割にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約3億人から約4億5,000万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 西暦1年と1000年のインドの人口は、どちらも約7,500万人と推計されている。当時の世界の人口の4分の1から3割ほどにあたる。 — Maddison (2001) 歴史イベント: - 50〜230年ごろ:北西から来たクシャーナ朝の王たちが、北インドを治めていた。 — Britannica: Kushan dynasty - 320〜500年ごろ:グプタ朝の王が、北インドの多くの国々をまとめていた。 — Britannica: Gupta dynasty - 495〜528年ごろ:北西からフーナと呼ばれる人々の軍が攻め入り、町や寺院が荒らされた。 — Wikipedia: Battle of Sondani - 606〜647年ごろ:ハルシャ王が、北インドの国々をまとめて治めていた。 — Britannica: Harsha - 600〜750年ごろ:南インドでは、パッラヴァ朝とチャールキヤ朝の争いが続いていた。 — Britannica: Pallava dynasty - 711〜712年:アラブの軍が、インダス川下流のシンド地方を征服した。 — Wikipedia: Umayyad conquest of Sindh - 1000〜1027年:北西のガズナ朝の軍が何度も攻め入り、町や寺院から財宝を奪っていった。 — Britannica: Mahmud of Ghazni - 1003〜1010年ごろ:チョーラ朝の王ラージャラージャが、タンジャーヴールに巨大な寺院を建てた。 — UNESCO: Great Living Chola Temples - 1025年:チョーラ朝の水軍が海を越え、東南アジアのシュリーヴィジャヤに攻め入った。 — Wikipedia: Chola invasion of Srivijaya - 1192年:タラインの戦いで、ゴール朝の軍が北インドの王たちを破った。 — Wikipedia: Second Battle of Tarain #### 西アジアの村(wa3) 統計: - 西暦1年から1200年までに生まれた人は、推計で約266億人。人類史で生まれた人の約2割にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約3億人から約4億5,000万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 西アジアの人口は、西暦1年の約2,500万人から、1000年には約2,000万人に減ったと推計されている。 — Maddison (2001) - アムワースの疫病では、兵士とその家族を中心に2万5,000人ほどが亡くなったと伝えられている。 — Wikipedia: Plague of Amwas 歴史イベント: - 70年:ローマの軍がエルサレムを攻め落とし、神殿が焼かれた。 — Wikipedia: First Jewish–Roman War - 132〜136年:ユダヤの地で、ローマに対する大きな反乱が起きた。(バル・コクバの乱) — Wikipedia: Bar Kokhba revolt - 224〜226年:ペルシアで、アルダシールがサーサーン朝を開いた。 — Britannica: Sasanian dynasty - 541〜549年:恐ろしい疫病が、海沿いの町から各地に広がっていった。(ユスティニアヌスのペスト) — Britannica: plague of Justinian - 602〜628年ごろ:ビザンツ帝国とサーサーン朝の長い戦争が続いた。 — Wikipedia: Byzantine–Sasanian War of 602–628 - 634〜651年:アラビアから来たイスラームの軍が、シリアやイラク、イランを次々に征服した。 — Wikipedia: Early Muslim conquests - 638〜639年:シリアの地で疫病が広がり、多くの人が亡くなった。(アムワースの疫病) — Wikipedia: Plague of Amwas - 750年:アッバース家の反乱で、ウマイヤ朝が倒された。 — Wikipedia: Abbasid Revolution - 762〜766年:ティグリス川のほとりに、新しい都バグダードが築かれた。 — Wikipedia: Abbasid Revolution / Baghdad - 869〜883年:イラク南部で、奴隷として過酷な労働を強いられていた人々(ザンジュ)が、大きな反乱を起こした。 — Wikipedia: Zanj Rebellion - 1055年:トルコ系のセルジューク朝の軍が、バグダードに入った。 — Britannica: Seljuq - 1071年:マラズギルトの戦いで、セルジューク朝の軍がビザンツ皇帝の軍を破った。 — Britannica: Battle of Manzikert - 1099年:西から来た十字軍がエルサレムを攻め落とし、多くの住民が殺された。 — Wikipedia: First Crusade - 1187年:サラーフッディーン(サラディン)が、エルサレムを取り戻した。 — Britannica: Saladin #### ヨーロッパの村(eu3) 統計: - 西暦1年から1200年までに生まれた人は、推計で約266億人。人類史で生まれた人の約2割にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約3億人から約4億5,000万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - ヨーロッパの人口は、西暦1年の約3,100万人から600年には約2,600万人に減り、1000年には約3,600万人に回復したと推計されている。 — McEvedy & Jones (1978) - ローマ時代の人々の平均寿命は、生まれたときで20〜30年ほどだったと推計されている。 — Scheidel (2007) - アントニヌスの疫病では、帝国の人口の約1割が亡くなったと推計されている(推計の幅は2〜33%と大きい)。 — Wikipedia: Antonine Plague 歴史イベント: - 9年:ゲルマニアの森で、ローマの軍団が待ち伏せにあって全滅した。(トイトブルクの戦い) — Britannica: Battle of the Teutoburg Forest - 165〜180年:恐ろしい疫病が帝国じゅうに広がった。(アントニヌスの疫病)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Antonine Plague - 235〜284年ごろ:皇帝が次々に入れ替わり、内乱と外からの侵入が続いた。(3世紀の危機) — Britannica: Roman Empire - 249〜262年:ふたたび疫病が広がり、多くの町で人が亡くなった。(キプリアヌスの疫病) — Wikipedia: Plague of Cyprian - 313年:キリスト教の信仰が、帝国で認められた。(ミラノ勅令) — Britannica: Edict of Milan - 410年:ゴート人の軍が、ローマの町を略奪した。 — Britannica: fall of Rome - 476年:西ローマ帝国の最後の皇帝が、退位させられた。 — Britannica: fall of Rome - 536〜537年:夏になっても日がかげり、寒さで麦が実らなかった。 — Wikipedia: Volcanic winter of 536 - 541〜549年:海沿いの町から、恐ろしい疫病が広がってきた。(ユスティニアヌスのペスト) — Britannica: plague of Justinian - 771〜814年ごろ:フランク王カール(カール大帝)が、征服によって広げた大きな国を治めていた。 — Britannica: Charlemagne - 793〜1000年ごろ:北の海から来た船団が、海沿いや川沿いの村や修道院をたびたび襲っていた。(ヴァイキング) — Britannica: Viking - 899〜955年ごろ:東から来た騎馬の人々(マジャール人)が、たびたび村々を襲っていた。 — Wikipedia: Hungarian invasions of Europe - 1066年:海を渡ってきたノルマンディー公ギヨームの軍が、イングランドの王を破った。 — Britannica: Norman Conquest - 1096年:聖地エルサレムをめざす十字軍が出発し、村からも加わる人が出た。 — Wikipedia: First Crusade #### アフリカ西部のサバンナの村(af3) 統計: - 西暦1年から1200年までに生まれた人は、推計で約266億人。人類史で生まれた人の約2割にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約3億人から約4億5,000万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - アフリカ全体の人口は、西暦1年の約1,650万人から1000年には約3,300万人に増えたと推計されている。 — Maddison (2001) 歴史イベント: - 300〜700年ごろ:砂漠の向こうから、ラクダの隊商が定期的にやってくるようになっていた。 — Wikipedia: Trans-Saharan trade - 300〜850年ごろ:ニジェール川の内陸三角州の町(ジェンネ・ジェノ)が大きくなり、各地から人が集まっていた。 — The Met: Inland Niger Delta - 700〜1000年ごろ:北のガーナ王国が、金と塩の交易で栄えていた。 — Britannica: Ghana (historical West African empire) - 800〜1100年ごろ:北から来たイスラームの商人たちが、町に住みつくようになっていた。 — Wikipedia: Ghana Empire - 1030〜1040年ごろ:西のタクルールの王が、イスラームに改宗したと伝わった。 — Wikipedia: Takrur - 1075〜1090年ごろ:東のカネムの王が、イスラームを宮廷の宗教にしたと伝わった。 — Wikipedia: Kanem–Bornu Empire - 1100〜1200年ごろ:南の森の町イフェで、精巧な土(テラコッタ)の頭像がつくられていると聞いた。 — Britannica: Ife #### アンデス・メソアメリカの村(am3) 統計: - 西暦1年から1200年までに生まれた人は、推計で約266億人。人類史で生まれた人の約2割にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約3億人から約4億5,000万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 中南米の人口は、西暦1年の約560万人から、1000年には約1,140万人に増えたと推計されている。 — Maddison (2001) - 西暦400年ごろのテオティワカンには、12万5,000〜20万人が暮らしていたと推計されている。 — The Met: Teotihuacan - テオティワカンの人口は、町の中心が焼け落ちたあと、600〜800年ごろには3万人以下に減ったと推計されている。 — The Met: Teotihuacan 歴史イベント: - 100〜550年ごろ:メキシコ盆地の大都市テオティワカンが栄え、各地から人や品物が集まっていた。 — The Met: Teotihuacan - 378年:テオティワカンと結びついた軍がティカルの町に入り、王が替わった。 — Wikipedia: Tikal–Calakmul wars - 431年ごろ:南の火山(イロパンゴ)が大噴火し、周りの土地は長いあいだ人が住めなくなった。 — University of Oxford, School of Archaeology - 550年ごろ:テオティワカンの町の中心が焼け落ちたと伝わった。 — The Met: Teotihuacan - 562年:ティカルの町が、カラクムルと手を結んだ国々に敗れた。 — Wikipedia: Tikal–Calakmul wars - 560〜600年ごろ:日照りと大雨が交互に続き、海沿いの谷の畑が砂に埋もれていった。 — University of New Mexico: Moche - 600〜1000年ごろ:山の上の大きな国(ワリやティワナク)が、各地に道や町を広げていた。 — University of Pittsburgh: Wari and Tiwanaku - 800〜950年ごろ:南の低地のマヤの町々から、人々が去っていった。 — Wikipedia: Classic Maya collapse - 900〜1150年ごろ:北の町トゥーラが栄え、トルテカの人々の力が広がっていた。 — Wikipedia: Tula (Mesoamerican site) - 1000〜1100年ごろ:長く続く日照りのなかで、湖のほとりの大きな町(ティワナク)が衰えていった。 — University of Pittsburgh: Wari and Tiwanaku ### 近世(1200〜1749年) #### 中国の農村(ea4) 統計: - 1200年から1750年までに生まれた人は、PRBの推計から計算すると約160億人。人類史で生まれた人の約14%にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約4億5,000万人から約8億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 明の朝廷が1393年にまとめた戸籍には、約6,055万人が記録されている。実際の人口はもっと多かったと考える研究者もいる。 — Brook (1998) via Wikipedia: Population history of China - 明の終わりごろの人口は、研究者によって約1億6,000万人から約2億人と推計されている。 — Fairbank & Goldman (2006); Brook (1998); Ebrey (1999) via Wikipedia: Population history of China - 1556年の陝西の大地震では、約83万人が亡くなったと伝えられてきた。近年の推計では、地震で直接亡くなったのは約10万人で、83万人は、その後の飢えや疫病、土地を離れた人を含めて戸籍から減った数とされる。 — Wikipedia: 1556 Shaanxi earthquake(中国地震局の推計:直接の死者約10万人、戸籍上の減少83万人); Britannica: Shaanxi province earthquake of 1556 歴史イベント: - 1211〜1234年:北から来たモンゴルの騎馬軍が金の国に攻め入り、村々が長い戦乱に巻きこまれた。 — Britannica: Jin dynasty (1115–1234) / Wikipedia: Mongol conquest of the Jin dynasty - 1235〜1275年:北のモンゴルの軍と宋の軍との戦が、長江の流域で何年も続いた。 — Britannica: Song dynasty / Wikipedia: Mongol conquest of the Song dynasty - 1279〜1281年:宋の最後の朝廷が南の海の戦いで敗れ、国じゅうがモンゴルの元に治められることになった。 — Wikipedia: Battle of Yamen - 1344〜1345年:黄河が大きくあふれて流れを変え、多くの村が水に沈んだ。堤を築く労役に、大勢が駆り出された。 — Wikipedia: 1344 Yellow River flood - 1351〜1366年:赤い頭巾を目印にした人々が各地で立ち上がり、元に対する反乱が広がった。(紅巾の乱) — Wikipedia: Red Turban Rebellions - 1368年:朱元璋が南京で明を建てた。元の朝廷は、北の草原へ去っていった。 — Britannica: Ming dynasty - 1405〜1433年:鄭和の大きな船団が、はるか南の海へ何度も出ていったと聞いた。 — Britannica: Zheng He - 1552〜1560年ごろ:倭寇と呼ばれた海の武装集団が、海沿いや川沿いの町を襲ったと伝わった。 — Wikipedia: Jiajing wokou raids - 1556年:西の陝西で大地震が起こり、数えきれないほどの家が崩れたと伝わった。 — Britannica: Shaanxi province earthquake of 1556 - 1630〜1643年:日照りと飢饉が何年も続き、各地で飢えた農民たちの反乱軍が立ち上がった。 — Britannica: Li Zicheng / Wikipedia: Transition from Ming to Qing - 1644年:李自成の反乱軍が北京を攻め落とし、明の朝廷が倒れた。まもなく、清の軍が長城を越えて北京に入った。 — Britannica: Li Zicheng / Qing dynasty - 1645〜1646年:清の朝廷が、男は頭の前を剃り、後ろ髪を編んで垂らす(辮髪)よう命じた。従わない者は罰せられた。 — Wikipedia: Queue (hairstyle) - 1645年:清の軍が揚州の町を攻め落とし、多くの住民を殺したと伝わった。 — Wikipedia: Yangzhou massacre - 1712〜1713年:これから増える人の数には、人頭の税をかけないというお触れが出たと伝わった。 — Ma, D. (2008) LSE Economic History Working Paper / Wikipedia: Kangxi Emperor 設定の注記:小地域の重みは仮定。1200年ごろの南宋と金をあわせた人口は約1億4,000万人と推計されるが(Wikipedia: Population history of China)、華北はモンゴルの征服(1211〜1234年)で大きく荒れ、1290年の元の戸籍でも南の比重が大きい。そこで1368年までは華北30:江南70、明以降は華北の復興(移住政策など)を考えて40:60とした。江南は長江下流だけでなく、華中・華南の稲作地帯をまとめたもの。lit 0.12(女性は0.2倍)はゲーム上の仮定。 #### 日本の農村(jp4) 統計: - 1200年から1750年までに生まれた人は、推計で約160億人。人類史で生まれた人の約14%にあたる。 — PRB (2022) の表から計算 - この時代、世界の人口は約4億5,000万人から約7億9,500万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 日本の人口は、1280年ごろに570万〜620万人、1450年ごろに960万〜1,050万人ほどだったと推計されている。 — Farris (2006)(Wikipedia: Demographic history of Japan before the Meiji Restoration) - 1600年ごろの日本の人口は、1,500万〜1,700万人ほどと推計されている。推計には1,200万〜2,200万人の幅がある。 — Farris (2006) / Kitō (1996) / McEvedy & Jones (1978)(Wikipedia: Demographic history of Japan before the Meiji Restoration) - 1721年の幕府の調べでは、日本の人口は約2,607万人だった。武士などは数に入っていない。 — 享保6年の全国人口調査(Wikipedia: Demographic history of Japan before the Meiji Restoration) 歴史イベント: - 1230〜1231年:長雨と冷たい夏で稲が実らず、翌年は日照りが続いた。種もみまで食べ尽くし、各地で多くの人が飢えて亡くなった。(寛喜の飢饉) — Wikipedia(日本語): 寛喜の飢饉 - 1274年:海の向こうから元の大軍が攻めてきて、対馬や壱岐、博多で戦があったと伝わった。(文永の役) — Wikipedia: Mongol invasions of Japan - 1281年:ふたたび元の大軍が攻めてきたが、大風で多くの船が沈んだと伝わった。(弘安の役) — Wikipedia: Mongol invasions of Japan - 1428年:近江の馬借たちが借金の帳消し(徳政)を求めて立ち上がり、一揆は京や奈良にまで広がったと伝わった。(正長の土一揆) — Wikipedia(日本語): 正長の土一揆 - 1459〜1461年:日照り、大風、長雨、イナゴが続き、西の国々は大飢饉になった。京では多くの人が飢えて亡くなったと伝わった。(長禄・寛正の飢饉) — Wikipedia: Kanshō famine - 1467〜1477年:京で大きな戦が始まり、十年あまり続いた。戦は国々に広がっていった。(応仁の乱) — Britannica: Ōnin War - 1543〜1546年:南の種子島に来た異国の船から、鉄砲が伝わったと聞いた。(鉄砲伝来) — Britannica: Tanegashima - 1549〜1552年:海の向こうから来た僧(宣教師)が九州で新しい教えを説いている、という話が伝わった。(キリスト教の伝来) — Britannica: Saint Francis Xavier - 1588年:刀狩りのお触れが出て、村の刀や槍が集められていった。京の大仏殿の釘や金具にするためだと言われた。(刀狩令) — Wikipedia: Sword hunt - 1600〜1603年:美濃の関ヶ原で天下分け目の大戦があったと伝わった。まもなく、江戸に徳川の幕府が開かれた。(関ヶ原の戦い・江戸幕府) — Britannica: Battle of Sekigahara / Tokugawa period - 1637〜1638年:九州の島原と天草で、重い年貢と信仰への弾圧に苦しんだ百姓たちが立ち上がった。一揆は幕府の大軍に鎮められた。(島原・天草一揆) — Wikipedia: Shimabara Rebellion - 1640〜1643年:日照りや長雨、冷害、虫の害が重なって凶作が続き、各地で多くの人が飢えた。村を捨てて逃げる者も出た。(寛永の飢饉) — Wikipedia(日本語): 寛永の大飢饉 - 1707年:富士山が火を噴き、江戸にまで灰が降った。山のふもとの村々では、田畑が焼け砂に埋まったと聞いた。(宝永の大噴火) — Wikipedia(日本語): 宝永大噴火 - 1732〜1733年:西の国々でウンカが大発生し、稲が枯れた。九州をはじめ、多くの人が飢えて亡くなった。(享保の飢饉) — Wikipedia(日本語): 享保の大飢饉 設定の注記:小地域は生まれた年で分けた時代区分(鎌倉・室町〜1466年/戦国1467〜1602年/江戸1603年〜)。重みはどれも1で、生まれた年に合うものが1つだけ選ばれる。時代ごとの出来事は、文ごとの min/max(その年に起きる)で切り替えている。名前は、江戸時代の庶民の名前の例だけを使った(中世の庶民の名前、とくに女性の名前は確かめきれなかったため、1602年以前は名前なし)。文字を習える確率(lit)は仮定:中世4%、15世紀なかばから6%、1650年から12%、1700年から20%(寺子屋が18世紀に増えたことを反映)。 #### インドの農村(sa4) 統計: - 1200年から1750年までに生まれた人は、PRBの推計から計算すると約160億人。人類史で生まれた人の約14%にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約4億5,000万人から約8億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - インドの人口は、1500年に約1億1,000万人、1600年に約1億3,500万人、1700年に約1億6,500万人と推計されている。 — Maddison (2001/2016) via Wikipedia: Demographics of Asia - 1600年ごろのインドの人口(推計約1億3,500万人)は、同じころの中国(推計約1億6,000万人)に次ぐ多さだった。 — Maddison (2001/2016) via Wikipedia: Demographics of Asia 歴史イベント: - 1206〜1210年:北の都デリーで、トルコ系の将軍アイバクが王位についた。(デリー・スルターン朝のはじまり) — Britannica: Delhi sultanate / Qutb al-Din Aybak - 1297〜1306年ごろ:北西からモンゴルの騎馬軍が何度も攻め入り、デリーの近くまで迫ったと伝わった。 — Wikipedia: Mongol invasions of India - 1327〜1329年:スルタンが都をデリーから南のダウラターバードへ移し、多くの人が移り住まされたと伝わった。 — Britannica: Muhammad ibn Tughluq - 1336〜1346年ごろ:トゥンガバドラー川のほとりにヴィジャヤナガルの都が築かれ、南に新しい王国が興った。 — Britannica: Vijayanagar - 1398〜1399年:中央アジアから来たティムールの軍がデリーを攻め落とし、町を略奪した。多くの住民が殺され、連れ去られたと伝わった。 — Britannica: Timur - 1400〜1450年ごろ:ティムールの侵入のあと、デリーのスルタンの力は弱まり、各地の総督が次々に自分の国を立てていった。 — Britannica: Delhi sultanate - 1498〜1500年:西の海岸のカリカットに、ポルトガルのヴァスコ・ダ・ガマの船が着いたと伝わった。 — Britannica: Vasco da Gama - 1526年:パーニーパットの戦いで、北西から来たバーブルの軍がデリーのスルタンを破った。(ムガル帝国のはじまり) — Britannica: First Battle of Panipat / Babur - 1556〜1605年ごろ:アクバル帝のもとで、ムガル帝国が北インドの大部分を治めるようになっていった。地租は、畑を測って収穫を調べたうえで決められるようになった。 — Britannica: Akbar - 1565年:デカンのスルタンたちの連合軍がヴィジャヤナガルの軍を破り、都ヴィジャヤナガルが略奪された。 — Britannica: Battle of Talikota - 1630〜1632年:何年も日照りが続き、デカンやグジャラートで大飢饉が起こったと伝わった。 — Wikipedia: Deccan famine of 1630–1632 - 1632〜1653年:アーグラで、皇帝シャー・ジャハーンが亡き妃のために白い大理石の霊廟(タージ・マハル)を建てていると聞いた。 — Britannica: Taj Mahal - 1674〜1707年ごろ:西のデカンでマラーターの王シヴァージーが即位し、その後もムガル皇帝アウラングゼーブの軍との戦いが長く続いた。 — Britannica: Shivaji / Aurangzeb - 1739年:ペルシアのナーディル・シャーの軍がデリーを攻め落とし、孔雀の玉座など莫大な財宝を持ち去ったと伝わった。 — Britannica: Nādir Shāh 設定の注記:小地域の重みは仮定。北インドと南インドは 60:40(sa3 と同じ。インダス・ガンジス平原の人口の多さを反映)。北インドのうち一部(重み12)をムスリムの家として分け、名前・信仰・一部の文を変えている。ムスリムの割合はこの時代の推計が確認できなかったため、のちの国勢調査(1881年に約2割)より低めに置いた仮定。南インドのデカン以南ではムスリムの家は扱っていない(簡略化)。北の大きな出来事は、南の村にも「伝わった」知らせとして出るよう sub を付けていない。lit 0.06(女性は0.15倍)はゲーム上の仮定。 #### 西アジアの村(wa4) 統計: - 1200年から1750年までに生まれた人は、PRBの推計から計算すると約160億人。人類史で生まれた人の約14%にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約4億5,000万人から約8億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 西アジア(いまのトルコ、イラン、その他の地域)の人口は、1500年に約1,800万人、1600年に約2,100万人と推計されている。 — Maddison (2001/2016) via Wikipedia: Demographics of Asia - 黒死病では、エジプトの人口の約4割、中東全体では約3分の1が亡くなったと推計されている。 — Wikipedia: Black Death(エジプトの人口の約40%、中東の人口の約33%) - ジェラーリーの反乱のころ、アマスヤやカイセリの町では、1580年から1640年のあいだに人口が約半分に減ったとされる。 — Wikipedia: Celali rebellions 歴史イベント: - 1219〜1231年:東から来たモンゴルの軍がホラズムの国に攻め入り、イランの町々を次々に攻め落とした。 — Britannica: Khwārezm-Shah dynasty / Wikipedia: Mongol invasion of the Khwarazmian Empire - 1258年:モンゴルのフレグの軍がバグダードを攻め落とし、カリフを殺した。多くの住民も命を落としたと伝わった。 — Britannica: Siege of Baghdad (1258) / Wikipedia: Siege of Baghdad (1258) - 1299〜1326年ごろ:西アナトリアで、オスマンという首長の一族が力を伸ばしていると聞いた。 — Britannica: Ottoman Empire - 1347〜1349年:恐ろしい疫病が町から村へと広がり、村のあちこちで弔いが続いた。(黒死病)(この出来事で亡くなる確率 30%) — Dols (1977) The Black Death in the Middle East; Borsch et al. via Islamic Law Blog (2020); Wikipedia: Black Death in the Middle East - 1347〜1349年:西の港町から恐ろしい疫病が広がり、多くの人が亡くなったと伝わった。(黒死病) — Wikipedia: Black Death in the Middle East - 1400〜1401年:東から来たティムールの軍が、アレッポやダマスカス、バグダードを攻め落とした。ダマスカスの職人たちは、遠いサマルカンドへ連れ去られたと伝わる。 — Britannica: Timur - 1402年:アンカラの戦いで、ティムールの軍がオスマン帝国の軍を破り、スルタンが捕らえられた。 — Britannica: Battle of Ankara - 1453年:オスマン帝国の軍がコンスタンティノープルを攻め落とした。町はやがてイスタンブルと呼ばれるようになった。 — Britannica: Fall of Constantinople - 1501〜1503年:若いイスマーイールが王(シャー)となり、シーア派(十二イマーム派)を国の教えと定めた。(サファヴィー朝) — Britannica: Safavid dynasty - 1514年:チャルディラーンの戦いで、オスマン帝国の軍がサファヴィー朝の軍を破ったと伝わった。 — Britannica: Battle of Chaldiran - 1516〜1517年:オスマン帝国の軍がマムルーク朝の軍を破り、シリアとエジプトがオスマン帝国に治められることになった。 — Britannica: Mamluk / Wikipedia: Ottoman–Mamluk War (1516–1517) - 1595〜1610年ごろ:ジェラーリーと呼ばれる武装した集団の反乱が各地で起こり、多くの村人が村を捨てて町へ逃れた。 — Wikipedia: Celali rebellions - 1598〜1629年ごろ:アッバース1世が都をイスファハーンに移し、大きな広場やモスクを築かせていると聞いた。 — Britannica: Abbās I - 1722年:東から来たアフガン人の軍がイスファハーンを囲み、サファヴィー朝の王が降伏した。 — Wikipedia: Siege of Isfahan (1722) 設定の注記:小地域の重みは Maddison の1500年の推計(トルコ 630万人、イラン 400万人、その他の西アジア 750万人)の比率から、アナトリア35:シリア・イラク42:イラン23 とした(アラビア半島などは『シリア・イラク』にまとめた簡略化)。名前は本人の家をムスリムの家として、アナトリアはトルコ語、シリア・イラクはアラビア語、イランはペルシア語の読みにした。キリスト教徒・ユダヤ教徒の共同体は文の中で扱う。黒死病の die 0.3 はシリア・イラクだけに設定(Dols:エジプトの住民の3分の1〜2分の1、Borsch らの推計:記録の残る地域で約42%。シリアの数字は確認できなかったため低めに置いた)。lit 0.05(女性は0.2倍)はゲーム上の仮定。 #### ヨーロッパの農村(eu4) 統計: - 1200年から1750年までに生まれた人は、推計で約160億人。人類史で生まれた人の約14%にあたる。 — PRB (2022) の表から計算 - この時代、世界の人口は約4億5,000万人から約7億9,500万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - ヨーロッパの人口は、1300年の約7,870万人から、黒死病のあとの1350年には約7,070万人に減り、1500年には約9,070万人に回復したと推計されている。 — Urlanis (1941)(Wikipedia: Medieval demography) - 1347〜1351年の黒死病では、ヨーロッパの人口の30〜60%が亡くなったと推計されている。 — Wikipedia: Black Death - 三十年戦争では、戦闘・飢え・疫病で450万〜800万人が亡くなったと推計されている。人口が半分以下になった土地もあった。 — Wikipedia: Thirty Years' War 歴史イベント: - 1237〜1241年:東から来たモンゴルの軍がリャザンやウラジーミルを攻め落とし、キエフも陥落した。以後、諸公はモンゴルの王に貢ぎものを納めるようになった。 — Wikipedia: Mongol invasion of Kievan Rus' - 1241〜1242年:モンゴルの軍がポーランドとハンガリーに攻め入り、レグニツァとモヒで迎え撃った軍を破った。翌年、軍は引き揚げていった。 — Wikipedia: Mongol invasion of Europe - 1315〜1317年:春から雨がやまず、麦が実らない年が続いた。各地で飢えが広がった。(大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Great Famine of 1315–1317(多くの町で人口の10〜25%、南イングランドで10〜15%が死亡と推計) - 1347〜1353年:南の港町から広がってきた疫病が、村にも入った。数か月のあいだ、弔いの鐘が鳴りやまなかった。(黒死病)(この出来事で亡くなる確率 35%) — Britannica: Black Death(1347〜1351年)/Wikipedia: Black Death(ヨーロッパの人口の30〜60%が死亡と推計。die はその下寄りの値) - 1337〜1453年:イングランドとフランスの王の戦いが、休戦をはさんで何十年も続いた。兵の通った村は焼かれ、畑が荒らされた。(百年戦争) — Wikipedia: Hundred Years' War - 1455〜1520年ごろ:町では、金属の活字で刷った本が売られるようになったと聞いた。(活版印刷) — Wikipedia: Gutenberg Bible(1454〜1455年ごろ、マインツで印刷) - 1517〜1525年:ヴィッテンベルクの修道士ルターが教会の免罪符を批判したという話が、村にも届いた。(宗教改革) — Wikipedia: Ninety-five Theses - 1524〜1525年:農奴の身分をなくすことなどを求めて、各地の農民が立ち上がった。反乱は諸侯の軍に打ち破られた。(ドイツ農民戦争) — Wikipedia: German Peasants' War - 1601〜1603年:夏にも霜が降りてライ麦が実らず、次の年は、まく種さえ足りなかった。村から人がいなくなっていった。(ロシアの大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 30%) — Wikipedia: Russian famine of 1601–1603(ロシアの人口の約3割が死亡と推計) - 1618〜1648年:宗教をめぐる戦が三十年続いた。軍勢が村々を行き来し、疫病と飢えが後に続いた。(三十年戦争) — Wikipedia: Thirty Years' War - 1649〜1655年:新しい法典で、農民は領主の土地にしばりつけられた。逃げた農奴は、何年たっても連れ戻されることになった。(会議法典) — Wikipedia: Sobornoye Ulozheniye - 1656〜1658年:ナポリでペストが流行り、町の人の半分以上が亡くなったという知らせが届いた。 — Wikipedia: Naples Plague - 1683年:オスマン帝国の大軍に包囲されたウィーンを、ポーランド王の率いる軍が救った。 — Wikipedia: Battle of Vienna - 1709年:この500年でいちばん寒いといわれる冬が来た。川も井戸も凍り、翌年まで飢えが続いた。(1709年の大寒波) — Wikipedia: Great Frost of 1709 設定の注記:小地域の重みは Urlanis (1941) の1500年の推計(Wikipedia: Medieval demography の表)からの概算。西・中央(フランス、ドイツ、低地地方、ブリテン諸島、北欧、スイス)約3,640万人→45、南(イタリア1,100万+イベリア850万)→22、東(オーストリア=ハンガリーの大部分とポーランド・リトアニア)→18、ロシア(北東ヨーロッパのうちポーランド・バルト以外)→15。バルカン(約800万人)はオスマン帝国の支配下で暮らしが大きく異なるため、この地域ファイルには含めず、ほかの小地域に比例して割り振っている(簡略化)。1200〜1750年を通じて同じ重みを使う(ロシアの比率は実際には時代とともに増えた)。名前は西・中央では教会の記録に残るラテン語の形、南はイタリア語、東はポーランド語、ロシアはロシア語の形を使った。lit(文字を習える確率)は内部の目安で、出典のある数字ではない。 #### アフリカの村(af4) 統計: - 1200年から1750年までに生まれた人は、推計で約160億人。人類史で生まれた人の約14%にあたる。 — PRB (2022) の表から計算 - この時代、世界の人口は約4億5,000万人から約7億9,500万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - アフリカ全体の人口は、1500年の約4,600万人から、1700年には約6,100万人に増えたと推計されている。 — Maddison (2001) - 16世紀から19世紀までに、1,000万〜1,200万人のアフリカの人々が、奴隷として大西洋の向こうへ連れ去られた。1600年までに渡ったのは数十万人ほどで、全体の5分の3近くは18世紀のことだった。 — Britannica: transatlantic slave trade - 黒死病では、エジプトの人口の約40%が亡くなったと推計されている。カイロでは、住民の3分の1以上が亡くなった。 — Wikipedia: Black Death 歴史イベント: - 1324〜1325年:マリの王マンサ・ムーサが、大勢の供を連れてメッカへの巡礼に出たと伝わった。カイロでは、王が使った金のせいで金の値が下がったという。 — Wikipedia: Mansa Musa - 1300〜1450年ごろ:南の高原の都(グレート・ジンバブエ)では、石を積んだ大きな囲いが築かれ、金や象牙が海辺の町へ運ばれていたと伝わる。 — Wikipedia: Great Zimbabwe - 1300〜1500年ごろ:南の海辺の町キルワが、内陸から運ばれる金と象牙の交易で栄えていた。 — Wikipedia: Kilwa Sultanate - 1347〜1349年:北の海から来た船とともに、恐ろしい疫病がアレクサンドリアに入り、カイロや村々に広がった。(黒死病)(この出来事で亡くなる確率 35%) — Wikipedia: Black Death(エジプトの人口の約40%が死亡と推計)/Black Death in the Middle East(カイロの人口の約3分の1) - 1482〜1500年ごろ:海の向こうから来た船の男たち(ポルトガル人)が海岸に石の砦を築き、金を買い集めていると聞いた。 — Wikipedia: Elmina Castle(1482年築城) - 1491年:コンゴの王が、海の向こうから来た人々の神の洗礼を受けたと伝わった。都には石造りの教会が建てられた。 — Wikipedia: Kingdom of Kongo - 1505年:ポルトガルの艦隊がキルワに兵を上げ、王を追い出したという知らせが届いた。 — Wikipedia: Kilwa Sultanate - 1517年:北から来たオスマン帝国の軍が、カイロの近くでマムルーク朝の軍を破った。エジプトはオスマン帝国の一部になった。 — Wikipedia: Ottoman conquest of Egypt - 1526年:コンゴの王アフォンソが、ポルトガルの商人たちが自由な民まで捕らえて連れ去っていると、ポルトガルの王に手紙で訴えたと伝わった。 — Wikipedia: Kingdom of Kongo - 1531〜1543年:東の低地のアダルの軍が高原に攻め上り、各地で教会が焼かれた。海の向こうからポルトガルの兵も加わり、1543年、皇帝の軍が勝って戦は終わった。 — Britannica: Ahmad Grāñ - 1591年:砂漠を越えてきたモロッコの軍が、鉄砲でソンガイの軍を破った。大きな国は、いくつにも分かれていった。(トンディビの戦い) — Wikipedia: Battle of Tondibi - 1650〜1750年ごろ:海岸の砦からは、捕らえられた人々を乗せたヨーロッパの商人の船が、次々に海の向こうへ出ていくようになっていた。 — Britannica: transatlantic slave trade(18世紀に全体の5分の3近く)/Wikipedia: Elmina Castle - 1665年:南から攻めてきたポルトガルの軍に、コンゴの王が討たれた。王位をめぐる争いが、その後何十年も続いた。(ムブウィラの戦い) — Wikipedia: Kingdom of Kongo - 1728〜1748年ごろ:北のオヨの国の騎馬の軍が、海に近いダホメの国に何度も攻めこみ、貢ぎものを納めさせるようになった。 — Wikipedia: Oyo Empire 設定の注記:地域全体の重みは common.json の Maddison のアフリカ全体の推計(1000年 3,300万人、1500年 4,600万人、1600年 5,500万人、1700年 6,100万人)。小地域の比率(西アフリカ38・中部と南部25・北アフリカ15・東アフリカ14・エチオピア高原8)は、出典で確かめられた小地域別の推計がないための仮定で、西アフリカのサバンナと森林地帯に人口が多かったことを反映させた概算。1200〜1750年を通じて同じ比率を使う。名前は、記録が比較的よく残る北アフリカ(アラビア語の名前)とエチオピア高原(キリスト教徒の名前)だけに入れ、ほかの小地域は null(名前を出さない)にした。lit は内部の目安。 #### アメリカ大陸の村(am4) 統計: - 1200年から1750年までに生まれた人は、推計で約160億人。人類史で生まれた人の約14%にあたる。 — PRB (2022) の表から計算 - この時代、世界の人口は約4億5,000万人から約7億9,500万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - ヨーロッパ人が来る前のアメリカ大陸の人口は、約5,400万人と推計されている。メキシコに約1,700万人、アンデスに約1,600万人、いまのアメリカ合衆国とカナダに約400万人が暮らしていた。 — Denevan (1992)(Wikipedia: Population history of the Indigenous peoples of the Americas) - 2019年の研究では、1492年ごろに6,000万人を超えていたアメリカ大陸の人口が、1600年には約600万人にまで減ったと推計されている。持ちこまれた疫病と、征服・強制労働が重なった。 — Koch et al. (2019)(Wikipedia: Population history of the Indigenous peoples of the Americas) - 16世紀から19世紀までに、奴隷とされたアフリカの人々1,000万〜1,200万人が、大西洋を越えて連れてこられた。そのうち5分の3近くは18世紀のことだった。 — Britannica: transatlantic slave trade 歴史イベント: - 1300〜1400年ごろ:大河のほとりの、土の塚が並ぶ大きな町(カホキア)から、人々が去っていったと伝わる。 — Wikipedia: Cahokia(1350〜1400年までに放棄) - 1438〜1470年ごろ:クスコの王パチャクティのもとで、インカの国が四方へ広がっていったと伝わる。 — Wikipedia: Inca Empire - 1492〜1499年:東の海から、大きな帆の船に乗った見知らぬ男たちがやってきた。(コロンブス) — Britannica: Christopher Columbus(1492年の航海) - 1520年:見たことのない疫病(天然痘)が都と村々に広がった。看病する人も倒れ、畑に出られる人がいなくなった。(この出来事で亡くなる確率 40%) — Wikipedia: Fall of Tenochtitlan(その地域の先住民の約40%が1年のうちに死亡と推計) - 1521年:スペイン人と、その側についた先住民の軍に囲まれていた都テノチティトランが、陥落した。 — Wikipedia: Fall of Tenochtitlan - 1525〜1532年ごろ:北から広がってきた疫病で皇帝ワイナ・カパックが亡くなり、二人の息子が王位を争う戦が続いたと伝わる。 — Wikipedia: Inca Empire(疫病の時期と原因には議論がある) - 1532〜1533年:海から来たスペイン人の小さな軍が、カハマルカで皇帝アタワルパを捕らえた。 — Wikipedia: Battle of Cajamarca - 1545〜1600年ごろ:遠くの山(ポトシなど)で大きな銀の鉱脈が見つかり、先住民の村々から、割り当てで多くの男たちが鉱山へ送られていった。 — Wikipedia: Potosí(1545年発見。1603年には少なくとも12万人の先住民が暮らしていた) - 1576〜1580年:高い熱と出血をともなう疫病(ココリツトリ)が、村々をおそった。(この出来事で亡くなる確率 45%) — Wikipedia: Cocoliztli epidemics/Acuña-Soto et al. (2004) "When half of the population died"(メキシコでの流行。p はこの小地域のうちメキシコの割合の目安) - 1605〜1694年ごろ:奥地の山に、農園から逃れた人々が自分たちの村々(パルマレス)をつくり、王を立てて暮らしていると、ひそかに伝わってきた。 — Wikipedia: Palmares (quilombo) - 1675〜1676年:先住民の指導者メタコメットと入植者たちのあいだで、大きな戦が起きた。多くの村が焼かれた。(フィリップ王戦争) — Wikipedia: King Philip's War - 1680年:北の高原のプエブロの人々が、ポペーの呼びかけで一斉に立ち上がり、スペイン人の入植者と宣教師を追い出した。(プエブロの反乱) — Wikipedia: Pueblo Revolt - 1695〜1720年ごろ:南の山地(ミナス・ジェライス)で金が見つかった。農園の仲間の何人かが、農園主によって金の採掘場へ売られていった。 — Wikipedia: Brazilian Gold Rush(1690年代。50万人のアフリカの人々が奴隷として金の産地へ連れてこられた) - 1542〜1545年:王が新しい法を出し、先住民を奴隷にすることや、エンコミエンダを子に継がせることを禁じたと伝わった。入植者たちは強く反発した。(インディアス新法) — Wikipedia: New Laws 設定の注記:地域全体の重みは common.json の Maddison の推計。小地域は生まれた年で切り替える。接触前(〜1491/1520/1532年)の比率は Denevan (1992) の地域別推計(メキシコ1,720万+中米560万、アンデス1,570万、カリブ300万+南アメリカ低地860万、アメリカ合衆国とカナダ380万。Wikipedia: Population history of the Indigenous peoples of the Americas)から。接触後の比率(植民地支配下の先住民・奴隷とされたアフリカ系の人々・入植者・北アメリカの先住民)は仮定:先住民人口の激減(Koch et al. 2019 など:1492年ごろの6,000万人超から1600年に約600万人)、1600年までにアメリカ大陸に着いたアフリカの人々は数十万人ほどで、その後に増えたこと(Britannica)、入植者と混血の人々の増加を反映させた概算。メスティーソなど混血の人々は、入植者の村と先住民の村に含めている(簡略化)。家業(jobs)は小地域ごとに分けられないため、どの小地域でも通じる言い方にした。奴隷とされた人々の小地域では townFrom を 9999 にして、町へ働きに出る共通の選択肢が出ないようにした。名前は、洗礼名の記録が残る植民地時代の小地域だけに入れた(先住民の村は洗礼名、農園はポルトガル語の洗礼名、入植者はスペイン語と英語)。lit は内部の目安。 #### 東南アジアの村(sea4) 統計: - 1200年から1750年までに生まれた人は、推計で約160億人。人類史で生まれた人の約14%にあたる。 — PRB (2022) の表から計算 - この時代、世界の人口は約4億5,000万人から約7億9,500万人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - インドネシアの人口は1500年の約1,070万人から1700年には約1,310万人に、インドシナは約450万人から約590万人に増えたと推計されている。 — Maddison(Wikipedia: Demographics of Asia) - バンダ諸島の人口は、1621年の征服の前の約1万5,000人から、約1,000人にまで減ったと推計されている。 — Loth / Corn の推計(Wikipedia: Dutch conquest of the Banda Islands) - マニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン船の航路は、1565年から1815年まで250年続いた。 — Wikipedia: Manila galleon 歴史イベント: - 1285〜1288年:北から元(モンゴル)の大軍が攻めてきた。1288年、川底に杭を打ちこんだ大越の軍が、白藤江(バクダン川)で元の船団を破った。 — Wikipedia: Mongol invasions of Vietnam - 1293年:海を渡ってきた元(モンゴル)の軍が引き揚げたあと、ジャワにマジャパヒトの国が建てられた。 — Wikipedia: Majapahit - 1351年ごろ:チャオプラヤー川の中洲に、アユタヤの都が開かれたと伝わる。 — Wikipedia: Ayutthaya Kingdom - 1418〜1428年:明の支配に対して黎利(レ・ロイ)が兵を挙げ、十年の戦いのすえに明の軍を追い出した。1428年、黎朝が建てられた。 — Wikipedia: Lê dynasty - 1431年ごろ:アユタヤの軍がアンコールの都を攻めた。その後、都の人々は南へ移っていったと伝わる。 — Wikipedia: Angkor(年代と衰えの原因には議論がある) - 1400〜1500年ごろ:海峡の港マラッカが栄え、行き来する商人とともに、海辺の町々にイスラームが広まっていった。 — Wikipedia: Malacca Sultanate - 1511年:西の海から来たポルトガルの艦隊が、マラッカの町を攻め落とした。 — Wikipedia: Malacca Sultanate - 1527年ごろ:北の海岸のイスラームの国デマクの軍に攻められ、マジャパヒトの国が終わったと伝わる。 — Wikipedia: Majapahit - 1564〜1569年:ビルマの王バインナウンの大軍が攻めてきて、1569年、アユタヤの都が落ちた。 — Wikipedia: Bayinnaung - 1571年:海を渡ってきたスペイン人がマニラを占領し、そこに町をつくった。 — Wikipedia: History of Manila - 1580〜1750年ごろ:マニラから毎年、大きなガレオン船が、中国の絹や陶磁器を積んで東の海の向こうへ出ていくと聞いた。 — Wikipedia: Manila galleon(1565〜1815年) - 1619年:オランダ東インド会社の軍がジャヤカルタの町を焼き払い、その跡にバタヴィアの町を築いた。 — Wikipedia: Batavia, Dutch East Indies - 1621年:東の香料の島々(バンダ諸島)で、オランダ東インド会社の軍が島の人々を殺し、捕らえ、島から追い出したと伝わった。ナツメグの交易を独り占めするためだった。 — Wikipedia: Dutch conquest of the Banda Islands - 1627〜1672年:北の鄭(チン)氏と南の阮(グエン)氏が国を二つに分けて争い、戦がくり返されていた。 — Wikipedia: Lê dynasty 設定の注記:地域全体の重みは common.json の Maddison の推計(インドネシア、インドシナ、その他の東アジアの合計)。小地域の比率(島嶼部45・大陸部30・大越20・フィリピン5)は仮定。Maddison(Wikipedia: Demographics of Asia の表)の1500年の値はインドネシア1,070万人、インドシナ450万人で、タイ・ビルマ・フィリピンは「その他の東アジア」に含まれて分けられないため、島嶼部(ジャワ・スマトラ・マレー半島など)を最も多く、フィリピンを最も少なくした概算。1200〜1750年を通じて同じ比率を使う。名前は大越(漢字の名前。女性は「氏」を名に含む記録の形)と、1580年以降のフィリピン(洗礼名)だけに入れた。lit は内部の目安(大陸部では男の子が寺で文字を習うことが多かったため高めにした)。 ### 近代(1750〜1949年) #### 中国の農村(ea5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) の表から計算 - 1820年の中国の人口は、約3億8,100万人と推計されている。 — Maddison (2001) - 太平天国の戦乱による死者は、2,000万〜3,000万人と推計されている。当時の中国の人口の5〜10%ほどにあたる。 — Wikipedia: Taiping Rebellion - 1876〜79年の華北の大飢饉では、950万〜1,300万人が亡くなったと推計されている。山西省だけで約550万人とされる。 — Wikipedia: Northern Chinese Famine of 1876–1879 - 1891〜1942年に、長城の南から東北地方へ渡った人は約2,540万人と推計されている。そのうち約1,670万人は、のちに故郷へ戻った。 — Gottschang & Lary (2000) / Wikipedia: Chuang Guandong 歴史イベント: - 1796〜1804年:西の山あいの地方で、白蓮教を信じる人々が反乱を起こし、何年も戦が続いていると伝わった。(白蓮教徒の乱) — Wikipedia: White Lotus Rebellion(1794〜1804年、湖北・陝西・四川) - 1839〜1842年:南の広州の沖にイギリスの軍艦が現れ、アヘンの取り締まりをめぐって戦になったと伝わった。(アヘン戦争) — Britannica: Opium Wars - 1850〜1864年:南から攻め上ってきた太平天国の軍と清の軍との戦が、長江の流域一帯に広がった。(太平天国の乱)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Taiping Rebellion(死者は2,000万〜3,000万人、当時の人口の5〜10%と推計。安徽・江蘇南部・浙江北部・江西北部が特に荒廃) - 1855年:黄河の堤が大きく切れ、川は山東の北を通って渤海へ流れるようになった。新しい流れの通り道で、多くの村が水に沈んだ。 — Wikipedia: 1851–1855 Yellow River floods - 1876〜1879年:雨の降らない年が続き、華北一帯が大飢饉になった。村を捨てて流れていく家族が絶えなかった。(丁戊奇荒)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Northern Chinese Famine of 1876–1879(死者950万〜1,300万人。山西だけで約550万人、山西の人口は約1,500万人) - 1894〜1895年:朝鮮をめぐって日本との戦が起き、清の軍が敗れたと伝わった。(日清戦争) — Britannica: First Sino-Japanese War - 1900年:「扶清滅洋」をかかげる義和団が、教会や鉄道を襲いながら村々に広がった。夏には、外国の連合軍が北京に攻め入った。(義和団の乱) — Wikipedia: Boxer Rebellion - 1911〜1912年:武昌で起きた蜂起をきっかけに、清の皇帝の世が終わり、中華民国が建てられた。(辛亥革命) — Britannica: Chinese Revolution (1911–12) - 1916〜1928年:各地の軍閥が争い、村は通り過ぎる兵に何度も食料を差し出した。(軍閥の時代) — Britannica: warlord era (China) - 1931年:夏の大雨で長江と淮河があふれ、広い範囲の村が水に沈んだ。(1931年の大洪水) — Wikipedia: 1931 China floods - 1937〜1945年:北京の近くで日本軍と中国軍が衝突し、戦争が国じゅうに広がった。(日中戦争)(この出来事で亡くなる確率 4%) — Wikipedia: Second Sino-Japanese War(死者は約2,000万人、その多くが中国の民間人。当時の中国の人口は約5億人) - 1938年:日本軍の進撃を止めるため、国民党の軍が花園口で黄河の堤を切った。水は河南から安徽、江蘇の村々を押し流した。(黄河決壊事件)(この出来事で亡くなる確率 8%) — Wikipedia: 1938 Yellow River flood(浸水地に住む約500万人。洪水・飢餓・疫病による死者40万〜50万人) - 1942〜1943年:河南で日照りとイナゴが重なり、戦争中の穀物の取り立ても続いて、大飢饉になった。(河南大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 5%) — Wikipedia: Chinese famine of 1942–1943(死者は約70万人〜200万〜300万人と推計に幅。河南の人口は約3,300万人) - 1946〜1949年:日本が降伏したあと、国民党と共産党の内戦が始まった。兵や荷車の列が、村の前を何度も行き来した。(国共内戦) — Britannica: Chinese Civil War 設定の注記:小地域の重み:華北(黄河流域と東北)40、華中・華南(長江流域とその南)60。清代〜民国期の人口分布のおおまかな仮定(出典なし)。schoolP は私塾・新式小学校に12歳で通える確率の仮定。Rawski (1979) は清代後期の男性の識字を「おおむね一家に一人」としており、女性はごくわずかだったことから、男女合わせて0.12〜0.25とした(数字は画面に出ない)。歴史イベントの die:太平天国(死者2,000万〜3,000万人=当時の人口の5〜10%、被害は長江下流に集中)→華中・華南で0.1、丁戊奇荒(950万〜1,300万人、被災5省)→華北で0.1、日中戦争(約2,000万人、人口約5億)→0.035、黄河決壊(浸水地の約500万人のうち40万〜50万人)→0.08、河南大飢饉(河南約3,300万人のうち70万〜300万人)→0.05。 #### 日本の村(jp5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) の表から計算 - 1820年の日本の人口は、約3,100万人と推計されている。 — Maddison (2001) - 1920年の初めての国勢調査では、日本の人口は約5,596万人だった。1920年代前半の平均寿命は、男性が約42歳、女性が約43歳。 — 総務省統計局「統計でみるあの時といま」(nippon.com) - 1873年、小学校に通っていた学齢の子どもは、男子で約40%、女子で約15%だった。1905年には全体で約96%になった。 — 文部科学省『学制百年史』 - 天明の飢饉と疫病で、1780年から1786年のあいだに日本の人口は92万人以上減ったとされる。 — Wikipedia: Great Tenmei famine 歴史イベント: - 1783〜1787年:浅間山が火を噴いた年から冷たい夏が続き、東北を中心に大飢饉になった。(天明の飢饉)(この出来事で亡くなる確率 2%) — Wikipedia: Great Tenmei famine(1782〜88年。飢饉と疫病で1780〜86年に人口が92万人以上減少) - 1833〜1837年:長雨と冷たい夏が何年も続き、米がとれなかった。村を捨てて物乞いに出る人が増えた。(天保の飢饉)(この出来事で亡くなる確率 1%) — Wikipedia: Tenpō famine(1833〜37年、死者20万〜30万人) - 1853〜1854年:江戸に近い浦賀の沖に、アメリカの黒い軍艦が現れたと伝わった。(黒船来航) — Britannica: Matthew C. Perry - 1868〜1869年:将軍の世が終わり、天皇を中心とする新しい政府ができた。各地で戦があった。(明治維新・戊辰戦争) — Britannica: Meiji Restoration - 1872年:村にも小学校をつくるようにと、お上からお触れが出た。翌年には、若い男に兵役が課されることになった。(学制・徴兵令) — 文部科学省『学制百年史』 / Britannica: Meiji Restoration - 1894〜1895年:清国との戦争が始まり、村からも兵が出た。(日清戦争) — Britannica: First Sino-Japanese War - 1904〜1905年:ロシアとの戦争が始まり、村の若者が次々に召集された。(日露戦争) — Britannica: Russo-Japanese War - 1918〜1920年:たちの悪い風邪(スペイン風邪)が流行り、村でも寝込む人が相次いだ。(この出来事で亡くなる確率 1%) — Wikipedia: Spanish flu(日本で1918〜20年の二度の流行で50万人近く)/ Unseen Japan(39万〜45万人) - 1923年:9月1日の昼前、関東で大地震が起き、東京や横浜の町の大半が焼けたと伝わった。混乱のなか、流言を信じた自警団などによって、多くの朝鮮人が殺された。(関東大震災) — Wikipedia: 1923 Great Kantō earthquake(死者約10万5,000人。朝鮮人の犠牲者は約6,000人と推計) - 1930〜1931年:生糸や米の値段が大きく下がり、村の暮らしが行き詰まった。(昭和恐慌) — Britannica: Japan — the Great Depression - 1937〜1940年:中国との戦争が始まり、村の男たちが次々に戦地へ送られた。(日中戦争) — Britannica: Second Sino-Japanese War - 1941〜1945年:アメリカやイギリスとの戦争が続いていた。年配の男たちにも、召集が来るようになった。(太平洋戦争)(この出来事で亡くなる確率 4%) — imidas(厚生労働省の統計:軍人・軍属の戦死者約230万人、一般国民の死者約80万人) - 1945年:8月、広島と長崎に原子爆弾が落とされた。15日、ラジオの放送で、戦争に負けたことが伝えられた。 — Britannica: atomic bombings of Hiroshima and Nagasaki - 1946〜1949年:地主の田が国に買い上げられ、小作をしていた家に安く売り渡された。(農地改革) — Britannica: Japan — land reform (occupation) 設定の注記:家業(jobs)は小地域で分けられないため、小地域は設けず、町での暮らしは共通の選択(町へ出る)と req: town の文で表した。schoolP:『学制百年史』(文部科学省)による学齢児童の就学率は1873年28.1%(男39.9%、女15.1%)、1895年約61%、1900年80%超、1905年約96%。vars は「生まれた年+15年」で選ばれるため、年を3年ずらして設定した。学制以前(寺子屋)の0.25は仮定(出典なし)。名前は時代ごとのよくある名(江戸の庶民の名、明治・大正・昭和初期の名づけの傾向)から選んだ。苗字は、engine が妻を「◯◯氏」と呼ぶ中国式になるため使わない。歴史イベントの die:天明の飢饉(1780〜86年に人口が92万人以上減少、人口約3,000万人)→0.02、天保の飢饉(死者20万〜30万人)→0.008、スペイン風邪(39万〜約50万人、人口約5,600万人)→0.008、日中戦争・太平洋戦争(軍人・軍属約230万人、一般国民約80万人。人口7,000万人台)→0.04。 #### インドの村(sa5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) の表から計算 - 1820年の南アジア(いまのインド・パキスタン・バングラデシュ)の人口は、約2億900万人と推計されている。 — Maddison (2001) - 1881年のインドで読み書きができたのは、男性の約8%、女性の約0.35%だった。1941年には、男性の約25%、女性の約7%になった。 — Wikipedia: Literacy in India(国勢調査) - 1876〜78年の大飢饉では、560万〜960万人が亡くなったと推計されている。 — Wikipedia: Great Famine of 1876–1878 - 1918〜19年のインフルエンザ(スペイン風邪)では、インドで1,200万〜1,700万人、人口の約5%が亡くなったとされる。 — Wikipedia: Spanish flu 歴史イベント: - 1757〜1765年:ベンガルで、イギリス東インド会社の軍が太守の軍を破ったと伝わった。やがて会社は、ベンガルの税を取り立てるようになった。(プラッシーの戦い) — Britannica: Battle of Plassey / Wikipedia: Bengal famine of 1770(会社のディーワーニー) - 1769〜1770年:日照りで稲が実らず、ベンガルとビハールが大飢饉になった。東インド会社は、税の取り立てをゆるめなかった。(ベンガル大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Bengal famine of 1770(死者は100万人〜1,000万人、人口の4%〜3分の1と推計に幅。会社は減税しなかった) - 1769〜1770年:日照りで稲が実らず、ベンガルとビハールが大飢饉になった。東インド会社は、税の取り立てをゆるめなかった。(ベンガル大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Bengal famine of 1770 - 1817〜1824年:ベンガルで流行りはじめたコレラが、巡礼や兵の行き来とともにインドじゅうへ広がった。 — Wikipedia: 1817–1824 cholera pandemic - 1853〜1890年:ボンベイで始まった鉄道の線路が、遠くの町までのびてきたと聞いた。 — Britannica: India — railways - 1857〜1858年:メーラトでインド人兵士(セポイ)が蜂起し、反乱は北インドの各地に広がった。(インド大反乱) — Wikipedia: Indian Rebellion of 1857 - 1876〜1878年:雨季の雨が降らず、南インド一帯が大飢饉になった。政府の救済の工事場に、仕事を求める人々が集まった。(1876〜78年の大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Great Famine of 1876–1878(死者560万〜960万人、Maharatna の推計で約820万人。被災地の人口5,850万人) - 1896〜1900年:雨季の雨が続けて足りず、各地で飢饉がくり返された。 — Wikipedia: Indian famine of 1899–1900(1896〜97年の飢饉も含む) - 1896〜1925年:ボンベイから広がったペストが、町や村に入ってきた。役人が家々を調べ、病人を隔離していった。(ペスト)(この出来事で亡くなる確率 6%) — Wikipedia: Third plague pandemic(英領インドで1,000万〜1,200万人が死亡) - 1918〜1919年:たちの悪い風邪(インフルエンザ)が流行り、村でも町でも多くの人が亡くなった。(スペイン風邪)(この出来事で亡くなる確率 5%) — Wikipedia: Spanish flu(インドで1,200万〜1,700万人、人口の約5%) - 1930年:ガンディーが海辺まで歩いて塩をつくり、イギリスの塩の専売に逆らった。各地で人々がこれにならった。(塩の行進) — Wikipedia: Salt March - 1943〜1944年:米の値段が跳ね上がり、ベンガルが大飢饉になった。戦争中で、米は軍や都市に優先して回された。(ベンガル飢饉)(この出来事で亡くなる確率 4%) — Wikipedia: Bengal famine of 1943(死者80万〜380万人、学界の大方の見方で約210万人。1941年のベンガルの人口約6,030万人) - 1943〜1944年:米の値段が跳ね上がり、ベンガルが大飢饉になった。戦争中で、米は軍や都市に優先して回された。(ベンガル飢饉)(この出来事で亡くなる確率 4%) — Wikipedia: Bengal famine of 1943 - 1947年:8月15日、インドは独立した。同時にパキスタンが分かれてでき、新しい国境の両側で、1,200万〜2,000万人が住みなれた土地を離れたとされる。(インド・パキスタン分離独立) — Wikipedia: Partition of India(避難・移住1,200万〜2,000万人) 設定の注記:小地域は地域と家の信仰で分けた(名前・祭り・祈りの場を家ごとに合わせるため)。重み:北インドのヒンドゥーの家40、北インドのムスリムの家9、ベンガルのヒンドゥーの家9、ベンガルのムスリムの家10、南インド32。英領インドの人口に占めるベンガル・北インド・南インドの割合と、ムスリムが全体の4分の1弱・ベンガルでは半数余りだったことからのおおまかな仮定。schoolP は国勢調査の識字率(1881年 男8.1%・女0.35%、1921年 男12.2%・女1.8%、1941年 男24.9%・女7.3%:Wikipedia: Literacy in India)を目安にした仮定。abroad は年季契約労働(1834〜1917年)のおもな行き先(モーリシャス、英領ギアナ・トリニダード、フィジー、ナタール、マラヤなど)を年代で割り当てた(行き先の年代分けは目安)。歴史イベントの die:1770年のベンガル飢饉(推計100万人〜1,000万人、人口の4%〜3分の1と幅が大きい)→0.1、1876〜78年の大飢饉(約820万人、被災地の人口5,850万人)→南インドで0.1、ペスト(インドで1,000万〜1,200万人、人口約2億9,000万人)→出会う確率0.6・死亡0.06、スペイン風邪(1,200万〜1,700万人、人口の約5%)→0.05、1943年のベンガル飢饉(約210万人、人口約6,030万人)→0.035。分離独立の死者(20万〜200万人)は幅が大きすぎるため die は設定しない。 #### 西アジアの町や村(wa5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) - この時代、世界の人口は約8億人から約25億人に増えたと推計されている。 — PRB (2022) - 1927年のトルコの国勢調査では、人口は約1,365万人だった。町に住んでいたのは、およそ4人に1人だった。 — Wikipedia: 1927 Turkish census - 1915年ごろ、オスマン帝国には約150万人のアルメニア人が暮らしていた。そのうち少なくとも66万4,000人、多ければ120万人が虐殺のなかで亡くなった。 — USHMM: The Armenian Genocide (1915–16): In Depth - 第一次世界大戦中の大飢饉で、レバノン山地では人口の4分の1から半分が亡くなったと推計されている。 — Wikipedia: Great Famine of Mount Lebanon / Mount Lebanon Mutasarrifate 歴史イベント: - 1831〜1832年:東から「コレラ」という病が伝わり、町や村で多くの人が亡くなった。 — Wikipedia: 1826–1837 cholera pandemic(1831年にはイラクやイランの川沿いでも大流行) - 1839年:スルタンの勅令が読み上げられ、命と財産の安全や、公平な税と兵役が約束された。(ギュルハネ勅令、タンズィマートの始まり) — Wikipedia: Edict of Gülhane - 1853〜1856年:ロシアとの戦争が始まり、村からも若者が兵に取られていった。(クリミア戦争) — Wikipedia: Crimean War - 1870〜1872年:二年続けて雨が降らず、穀物の値が跳ね上がった。大飢饉となり、各地で多くの人が亡くなった。(1870〜72年のイランの飢饉)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Persian famine of 1870–1872(死者の推計は20万〜300万人と幅が大きい) - 1894〜1896年:スルタン・アブデュルハミト2世の政府のもとで、オスマン軍とハミディイェ騎兵隊などが、各地のアルメニア人の村や町を襲った。(ハミディイェ虐殺)(この出来事で亡くなる確率 5%) — Wikipedia: Hamidian massacres(死者は8万〜30万人と推計に幅) - 1908年:南西のマスジェデ・ソレイマーンで、イギリス人の会社が石油を掘り当てたという話が伝わった。 — Wikipedia: Anglo-Persian Oil Company(1908年5月26日) - 1914〜1918年:ヨーロッパで始まった大きな戦争が、この地にも及んだ。軍が行き来し、穀物や家畜が取り立てられた。(第一次世界大戦) — Britannica: World War I - 1915〜1916年:オスマン帝国の統一と進歩委員会の政府が、アルメニア人を故郷から追い立てた。村の男たちは連れ去られ、女性や子ども、年寄りは南の砂漠へ向けて歩かされた。(アルメニア人虐殺)(この出来事で亡くなる確率 50%) — USHMM: The Armenian Genocide (1915–16): In Depth(約150万人のうち少なくとも66万4,000人、多ければ120万人が死亡) - 1915〜1918年:海は敵の艦隊にふさがれ、オスマン軍は穀物を軍にまわした。イナゴが残った作物を食べつくし、山の村々は大飢饉に見舞われた。(レバノン山地の大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 25%) — Wikipedia: Great Famine of Mount Lebanon / Mount Lebanon Mutasarrifate(人口約40万人のうち10万〜20万人が死亡) - 1920年:戦争に敗れたオスマン帝国の土地が分けられ、この地はフランスやイギリスの委任統治のもとに置かれた。 — Wikipedia: San Remo conference(1920年4月) - 1923年:アンカラで、トルコ共和国の成立が宣言された。大統領にはムスタファ・ケマルが選ばれた。 — Wikipedia: Proclamation of the Republic of Turkey(1923年10月29日) - 1925〜1941年:新しい王レザー・シャーのもとで、道路や鉄道、学校がつくられていった。(レザー・シャーの近代化) — Wikipedia: Reza Shah(在位1925〜1941年) - 1938年:東の海岸のダンマームで、アメリカの会社が石油を掘り当てたという話が伝わった。 — Wikipedia: Dammam No. 7(1938年3月3日) - 1948年:パレスチナで戦争が起き、約75万人のパレスチナの人々が故郷を追われたり逃れたりして、難民となった。(ナクバ) — Wikipedia: Nakba 設定の注記:小地域の重み(出生の抽選):アナトリア 33、アナトリア東部のアルメニア人の村 4(1914年生まれまで)、シリア・パレスチナ 9、レバノン山地 1、イラク 7、イラン 30、アラビア半島 13。Maddison の国別推計(1820〜1913年)と、1915年ごろのオスマン帝国のアルメニア人約150万人(USHMM)をもとにしたおおまかな仮定。エジプトはアフリカ(af5)に含める。schoolP は12歳でコーラン学校・教会の学校・小学校に通える確率の仮定(数字は画面に出ない)。トルコの1927年国勢調査で町に住む人は約24%、識字は1割前後とされることから、アナトリアは0.05〜0.45とし、宣教団や修道院の学校が多かったレバノン山地とアルメニア人の村は高め、アラビア半島は低めにした。die:1870〜72年のイランの飢饉は死者の推計が20万〜300万人と大きく分かれる(Wikipedia)ため控えめに0.1。ハミディイェ虐殺は8万〜30万人(アルメニア人約150万〜200万人のうち)→0.05。アルメニア人虐殺は約150万人のうち少なくとも66万4,000人、多ければ120万人(USHMM)→0.5。レバノン山地の大飢饉は人口約40万人のうち10万〜20万人(Wikipedia の2記事で推計が異なる)→0.25。 #### ヨーロッパの村や町(eu5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) - 1815年から1932年までに、約6,500万人がヨーロッパを離れた。多くはアメリカ大陸へ渡った。 — Wikipedia: Emigration from Europe - 第一次世界大戦で亡くなった兵士は、860万〜1,080万人と推計されている。フランスでは、兵士と民間人を合わせて、人口の4%あまりが亡くなった。 — Wikipedia: World War I casualties - アイルランドの人口は、1841年の約817万人から1851年には約655万人に減った。約100万人が亡くなり、100万人以上が国を離れた。 — Wikipedia: Great Famine (Ireland) - 1933年のヨーロッパには、約950万人のユダヤ人が暮らしていた。1945年までに、その3人に2人が殺された。 — USHMM: Jewish Population of Europe in 1933 歴史イベント: - 1789〜1799年:フランスで革命が起きたという知らせが、遠くの村々にも伝わった。(フランス革命) — Britannica: French Revolution - 1803〜1815年:ナポレオンの軍とヨーロッパの国々の戦争が続き、村からも若者が兵に取られていった。(ナポレオン戦争) — Britannica: Napoleonic Wars / Wikipedia: French invasion of Russia - 1816〜1817年:夏になっても寒く、雨が降り続いた。麦が実らず、パンの値段が跳ね上がった。(「夏のない年」。前の年の遠い火山の噴火が原因とされる) — Wikipedia: Year Without a Summer(1815年のタンボラ山の噴火) - 1831〜1832年:東から「コレラ」という病が広がってきた。かかった人が、その日のうちに亡くなることもあった。 — Wikipedia: 1826–1837 cholera pandemic - 1845〜1852年:ジャガイモが畑で黒く腐る病が広がった。飢えと病で多くの人が亡くなり、船で海を渡っていく人も後を絶たなかった。(アイルランドの大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 12%) — Wikipedia: Great Famine (Ireland)(1841年の人口817万人、死者約100万人、移民100万人以上) - 1914〜1918年:大きな戦争が続き、男たちの多くが兵として前線へ送られていた。(第一次世界大戦)(この出来事で亡くなる確率 2%) — Wikipedia: World War I casualties(兵士の死者860万〜1,080万人) - 1917〜1918年:都で革命が起き、皇帝の政府が倒れた。やがて国じゅうが内戦になり、村の穀物は兵に取り立てられた。(ロシア革命) — Britannica: Russian Revolution / Wikipedia: Russian famine of 1921–1922 - 1918〜1919年:ひどい流行り風邪が広がり、若い人たちまで次々に倒れた。(スペインかぜ)(この出来事で亡くなる確率 1%) — Wikipedia: Spanish flu(ヨーロッパの超過死亡約264万人、人口の約1.1%) - 1932〜1933年:スターリンの率いるソ連の政府が穀物の取り立てを強め、村の食べものまで持ち去った。村を出ることも禁じられ、多くの人が飢えで亡くなった。(ホロドモール)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Holodomor(犠牲者350万〜500万人とする研究が多い) - 1936〜1939年:軍の一部の反乱から始まった内戦が、国じゅうを引き裂いていた。(スペイン内戦)(この出来事で亡くなる確率 2%) — Wikipedia: Spanish Civil War - 1939年:ナチ・ドイツがポーランドに攻めこみ、ふたたびヨーロッパじゅうを巻きこむ戦争が始まった。(第二次世界大戦。1945年まで続いた)(この出来事で亡くなる確率 1%) — Wikipedia: World War II casualties - 1941〜1945年:ナチ・ドイツが始めた戦争は、やがてドイツの町や村にも及んだ。空襲が続き、東の戦線から戻らない男たちも多かった。(この出来事で亡くなる確率 8%) — Wikipedia: World War II casualties(ドイツの死者は人口の8.3〜8.9%) - 1941〜1942年:ナチ・ドイツの軍が攻めこみ、多くの村が戦場になった。男たちは前線へ、女たちは工場や畑へ送られた。(独ソ戦)(この出来事で亡くなる確率 12%) — Wikipedia: World War II casualties(ソ連の死者は人口の13.7%) - 1941〜1942年:ナチ・ドイツの軍がウクライナを占領した。若者たちはドイツへ働き手として連れていかれ、焼かれた村も多かった。(この出来事で亡くなる確率 13%) — Wikipedia: World War II casualties(ウクライナの死者は人口の16.3%) - 1939〜1941年:ナチ・ドイツとソ連の軍がポーランドに攻めこみ、国は分けられた。占領のもとで、多くの人が連行され、強制労働に送られた。(この出来事で亡くなる確率 8%) — Wikipedia: World War II casualties(ポーランドの死者は人口の約17%、その約半数はユダヤ人) - 1941〜1943年:ナチ・ドイツとその協力者たちが、ユダヤ人を家から追い立て、ゲットーや収容所へ送った。町のユダヤ人の多くが殺された。(ホロコースト)(この出来事で亡くなる確率 65%) — USHMM: Introduction to the Holocaust(約600万人、ヨーロッパのユダヤ人の3人に2人) 設定の注記:小地域は言語と名前をそろえるため国(地域)単位:西ヨーロッパ=イギリス・アイルランド・フランス・ドイツ(オーストリア、スイスのドイツ語圏を含む)、南ヨーロッパ=イタリア・スペイン(ポルトガルを含む)、東ヨーロッパ・ロシア=ロシア(ベラルーシを含む)・ウクライナ・ポーランド・ユダヤ人の町。低地諸国、北欧、中欧(チェコ・ハンガリー)、バルカン、ギリシャは小地域を立てていない(そのぶん他の重みが相対的に大きい)。重み(1849年生まれまで/1850年以降)は Maddison の1820年・1913年の国別人口から計算したおおまかな割合(%):イギリス 6.3/8.3、アイルランド 3.1/1.0、フランス 14/8.5、ドイツ 13.5/15、イタリア 9/7.5、スペイン 7/5.3、ロシア 18/22、ウクライナ 7/8、ポーランド 4.6/5.4、ユダヤ人の町 1.1/1.4(1933年のヨーロッパのユダヤ人約950万人〈USHMM〉、うち東欧に多数)。schoolP は12歳で学校に通える確率の仮定(数字は画面に出ない)。die:アイルランドの大飢饉は1841年の人口817万人のうち約100万人→0.12。第一次世界大戦は兵士の死者860万〜1,080万人+民間人(ヨーロッパ人口約4億8,000万人)→15歳以上に0.02。スペインかぜはヨーロッパで約264万人(人口の約1.1%)→0.01。ホロドモールはウクライナ人の数が1926〜39年に10%減った(Wikipedia)→0.1。スペイン内戦は約29万〜51万人(人口約2,500万人)→0.015。第二次世界大戦:イギリス・フランス・イタリアで人口の1〜1.4%→全体に0.01、ドイツ8.3〜8.9%→0.08、ソ連13.7%→ロシア0.12、ウクライナ16.3%(ユダヤ人の犠牲を含む)→0.13、ポーランド17%(約半数はユダヤ人)→0.08、ホロコーストはヨーロッパのユダヤ人の3人に2人→0.65。歴史イベントは国ごとの小地域に分けたため14件を少し超える。 #### アフリカの村(af5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) - アフリカの人口は、1820年の約7,400万人から1950年には約2億2,800万人に増えたと推計されている。 — Maddison (2010) - 大西洋奴隷貿易で奴隷船に乗せられたアフリカの人々は、約1,275万人と推計されている。1810年から1860年のあいだだけでも、350万人以上が運ばれた。 — Wikipedia: Atlantic slave trade - 1914年までに、アフリカの土地の約9割がヨーロッパの国々の支配のもとに置かれた。 — Wikipedia: Berlin Conference - 第一次世界大戦の東アフリカでの戦いでは、約100万人のアフリカの人々が荷運びの働き手として集められ、約9万5,000人が亡くなったとされる。 — Wikipedia: East African campaign (World War I) 歴史イベント: - 1750〜1840年:奴隷狩りの一団が近くの村を襲い、人々を連れ去った。連れ去られた人々は海岸でヨーロッパの商人に売られ、奴隷船で海の向こうへ運ばれていった。(大西洋奴隷貿易) — Wikipedia: Atlantic slave trade - 1807〜1808年:イギリスが奴隷の売り買いをやめると決めたという話が、海岸から伝わってきた。それでも、ほかの国の奴隷船はその後も長く来つづけた。 — Wikipedia: Slave Trade Act 1807 / Atlantic slave trade(最後の奴隷船は1867年) - 1750〜1860年:捕らえられた人々を海岸へ連れていく奴隷商人の列が、近くの道を通っていった。人々はポルトガルやブラジルの奴隷船で、海の向こうへ運ばれていった。(大西洋奴隷貿易) — Wikipedia: Atlantic slave trade - 1804〜1808年:イスラームの学者ウスマン・ダン・フォディオが聖戦を起こし、北のハウサの国々を従えていった。(ソコト・カリフ国の始まり) — Wikipedia: Sokoto Caliphate - 1815〜1840年:南の地方で戦と人々の移動が続き、多くの人が故郷を追われたと伝わった。(ムフェカネ) — Wikipedia: Mfecane(原因や犠牲者の数については議論がある) - 1805〜1848年:エジプトの総督ムハンマド・アリーのもとで、農民の若者が兵に取られ、運河や工場の労役に駆り出されていた。 — Wikipedia: Muhammad Ali of Egypt - 1859〜1869年:地中海と紅海を結ぶ運河の工事が続き、多くの農民が働き手として集められた。(スエズ運河。1869年に開通) — Wikipedia: Suez Canal - 1884〜1885年:遠いベルリンで、ヨーロッパの国々がアフリカの土地の分け方を話しあったと、のちに伝わった。その会議に、アフリカの人はひとりも呼ばれなかった。(ベルリン会議) — Wikipedia: Berlin Conference - 1887〜1897年:牛の疫病(牛疫)が広がり、土地によっては牛の8〜9割が死んだ。牛を失った村々では、飢えが続いた。 — Wikipedia: 1890s African rinderpest epizootic(エチオピアで約90%、フラニの牛の80〜90%) - 1896年:エチオピアの皇帝メネリク2世の軍が、アドワでイタリアの軍を破った。(アドワの戦い) — Wikipedia: Battle of Adwa(1896年3月1日) - 1904〜1908年:南西アフリカで、ドイツの植民地軍がヘレロとナマの人々を砂漠へ追いやり、収容所に閉じこめた。ヘレロの人々の約8割、ナマの人々の約半数が命を落としたとされる。(ヘレロ・ナマ虐殺) — Wikipedia: Herero and Nama genocide - 1905〜1907年:ドイツ領東アフリカで、綿花づくりを強いられた人々が立ち上がった。ドイツの軍が村や畑を焼き払い、続く飢饉で多くの人が亡くなった。(マジ・マジの反乱) — Wikipedia: Maji Maji Rebellion(死者7万5,000〜30万人) - 1914〜1918年:ヨーロッパの国々の戦争がアフリカにも及び、多くの男たちが兵や荷運びの働き手として駆り出されていた。(第一次世界大戦、1914〜1918年) — Wikipedia: East African campaign (World War I) - 1918〜1919年:ひどい流行り風邪が、港から鉄道や道に沿って村々へ広がった。(スペインかぜ)(この出来事で亡くなる確率 2%) — Wikipedia: Spanish flu(南アフリカで人口の約6%、イギリス領ソマリランドで約7%、ゴールドコーストで10万人以上) 設定の注記:小地域の重み(仮定):北アフリカ(エジプトとマグリブ)17、西アフリカ 35、東アフリカ(エチオピア、スーダン、大湖地方、東海岸)26、中部・南部アフリカ 22。Maddison の1820年・1913年の国別人口(エジプト・マグリブで全体の15〜20%、西アフリカはナイジェリアだけで1割以上)からのおおまかな割合で、出典つきの内訳ではない。名前は、アラビア語の名前がほぼ共通する北アフリカだけに設定した(西・東・中部南部は言語ごとの命名の違いが大きく、1つの家族に別の言語の名前が混ざるため null)。schoolP は12歳でコーランの塾・伝道団の学校などに通える確率の仮定(数字は画面に出ない)。die:スペインかぜは南アフリカで人口の約6%、イギリス領ソマリランドで約7%と推計される(Wikipedia)が、大陸全体の推計は確認できなかったため控えめに0.02。牛疫(1887〜97年)はエチオピアで人口の約3分の1が飢饉で亡くなったとされるが、東アフリカ全体の割合は確認できないため die は設定しない。 #### 中南米の村や町(am5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) - 大西洋をわたる奴隷貿易では、約1,275万人のアフリカの人々が奴隷船に乗せられ、約1,050万人がアメリカ大陸に着いたと推計されている。 — Wikipedia: Atlantic slave trade(約1,275万人が乗せられ、約1,050万人が到着) - 1872年のブラジルの国勢調査では、人口約1,000万人のうち約15%が奴隷の身分とされていた。黒人や混血の人々の約4分の3は、自由な身分だった。 — Wikipedia: Slavery in Brazil - 1789年のサン=ドマングでは、推計で約45万人が奴隷にされていた。白人(約4万人)と自由な有色人(約2万8,000人)を合わせた数の、6倍あまりにあたる。 — Wikipedia: Haitian Revolution - 第一次世界大戦の前、アルゼンチンでは人口のほぼ3割が外国生まれだった。 — Wikipedia: Immigration to Argentina 歴史イベント: - 1780〜1781年:クスコの近くで、トゥパク・アマルと名のる首長と妻のミカエラ・バスティダスが、スペインの支配に対して立ち上がった。反乱はアンデスの各地に広がった。(トゥパク・アマル2世の反乱) — Wikipedia: Rebellion of Túpac Amaru II - 1791年:8月、北部の農園で、奴隷にされていた人々がいっせいに立ち上がった。(ハイチ革命) — Wikipedia: Haitian Revolution - 1804年:1月1日、デサリーヌがゴナイーヴで独立を宣言し、この国はハイチと名づけられた。 — Wikipedia: Haitian Revolution - 1825年:フランスは、独立を認める代わりに多額の賠償金を求めた。ハイチはこれを受け入れさせられ、長く支払いに苦しんだ。 — Wikipedia: Haiti indemnity controversy - 1810年:ドローレスの村のイダルゴ神父が、人々に立ち上がるよう呼びかけた。独立を求める戦いが各地に広がった。(メキシコ独立戦争) — Wikipedia: Mexican War of Independence - 1824年:アヤクーチョの戦いで、スクレの率いる軍がスペインの軍を破った。ペルーの独立が決まった。 — Wikipedia: Battle of Ayacucho - 1822年:ペドロ王子が、ブラジルのポルトガルからの独立を宣言した。 — Wikipedia: Independence of Brazil - 1831年:クリスマスの日、バプテスト派の執事サミュエル・シャープの呼びかけで、多くの人が働くことを拒んで立ち上がった。(クリスマスの反乱) — Wikipedia: Baptist War - 1834年:8月1日、奴隷制が廃止された。ただし6歳以上の人は「徒弟」として、無給で働き続けることを求められた。 — Wikipedia: Slavery Abolition Act 1833 - 1838年:7月31日の真夜中、徒弟の制度が終わり、完全な自由が訪れた。 — Wikipedia: Emancipation Day - 1865年:土地と公正な裁きを求めて、ポール・ボーグルに率いられた人々がモラントベイの裁判所へ向かった。(モラントベイの反乱) — Wikipedia: Morant Bay rebellion - 1864〜1870年:パラグアイとの戦争が続き、村からも若者たちが兵として送られていった。(パラグアイ戦争) — Wikipedia: Paraguayan War - 1871年:9月、これから奴隷の母から生まれる子は自由の身とする法律ができた。(出生自由法) — Wikipedia: Law of Free Birth (Rio Branco Law, 1871) - 1888年:5月13日、イザベル皇女が、奴隷制を廃止する法律に署名した。(黄金法) — Wikipedia: Lei Áurea - 1868〜1878年:東部で、スペインからの独立を求める戦いが続いていた。戦いを始めたセスペデスは、自分の農園の奴隷を解放していた。(十年戦争) — Wikipedia: Ten Years' War - 1886年:10月、キューバの奴隷制が完全に廃止された。 — Wikipedia: Slavery in Cuba - 1896〜1898年:スペイン軍の命令で、村の人々は町の収容区へ移らされた。食べものも薬も足りなかった。(再集中政策)(この出来事で亡くなる確率 10%) — Wikipedia: Cuban War of Independence(再集中政策で少なくとも17万人、人口の約1割が死亡) - 1910〜1920年:国じゅうが戦乱に巻きこまれていた。南ではサパタの軍が、農民に土地を返せと訴えた。(メキシコ革命)(この出来事で亡くなる確率 5%) — Wikipedia: Mexican Revolution(死者約100万人); Wikipedia: Demographics of Mexico(1900年の人口1,360万人) - 1880〜1914年:港には毎週のように、イタリアやスペインからの移民船が着いた。 — Wikipedia: Immigration to Argentina - 1918〜1920年:恐ろしいかぜ(スペインかぜ)が、町や村に広がった。 — Wikipedia: Spanish flu - 1929〜1933年:世界じゅうが不景気になり、砂糖やコーヒーの値段が暴落した。仕事を失う人が相次いだ。(世界恐慌) — Wikipedia: Great Depression in the United States 設定の注記:小地域の重み(出生の割合のおおまかな仮定):メキシコ・中米とアンデスが大半。奴隷制のもとで生まれる小地域は、ブラジルが1871年(出生自由法)まで、サン=ドマングが1792年まで、ジャマイカが1833年まで、キューバが1867年(モレ法で以後の出生は自由)まで。カリブの奴隷制下では出生が少なかった(自然減)ため重みは人口比より小さめ。ブエノスアイレスの移民の下町は1850年以降、1872年以降に重みを増やした。schoolP は識字率のおおまかな目安(メキシコ・ブラジルとも1900年ごろで2割前後、アルゼンチンは1884年の初等教育法以降に就学が広がった)に合わせた内部設定。townFrom は奴隷制が廃止された年。 #### 北アメリカの村や町(na5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) - 1790年の最初の国勢調査で、合衆国の人口は約393万人。そのうち約70万人が奴隷にされていた。 — Wikipedia: 1790 United States census - 1860年の国勢調査では、約395万人が奴隷にされていた。合衆国の人口の約8人に1人にあたる。 — Wikipedia: 1860 United States census - 1892年から1954年までに、約1,200万人の移民がエリス島を通って合衆国に入った。 — Wikipedia: Ellis Island - 1910年から1970年までに、約600万人の黒人が南部から北部や西部へ移り住んだ。 — Wikipedia: Great Migration (African American) 歴史イベント: - 1775年:レキシントンとコンコードで戦いが始まった。翌年7月4日、13の植民地が独立を宣言した。(アメリカ独立戦争) — Wikipedia: American Revolutionary War - 1775年:イギリス側について戦えば自由を与えるという布告が出された。農園を抜け出し、イギリス軍のもとへ向かう人々がいた。(ダンモアの布告) — Wikipedia: American Revolutionary War (Dunmore's Proclamation) - 1803年:合衆国がフランスからルイジアナを買い取り、国の広さがほぼ倍になった。(ルイジアナ買収) — Wikipedia: Louisiana Purchase - 1822〜1828年:セクォイアのつくったチェロキー文字が、村から村へと広まっていた。多くの人が、自分たちの言葉を読み書きできるようになった。 — Wikipedia: Cherokee syllabary - 1830年:合衆国でインディアン移住法が成立した。政府は、ミシシッピ川の東に住む先住民の国々に、西へ移るよう迫った。 — Wikipedia: Trail of Tears - 1838〜1839年:合衆国の軍隊によって家を追われ、収容所に集められた。冬のあいだ、西のインディアン準州まで歩かされた。(涙の旅路)(この出来事で亡くなる確率 25%) — Wikipedia: Trail of Tears(移住させられた約16,000人のうち4,000〜8,000人が死亡) - 1837〜1838年:イギリスの総督の支配に反対するパトリオットたちが立ち上がり、近くの村で戦いになった。(ローワー・カナダの反乱) — Wikipedia: Lower Canada Rebellion - 1850年:北部の州に逃れた人まで捕まえて連れ戻す法律ができた。北をめざす人々は、カナダまで逃れるようになった。(逃亡奴隷法) — Wikipedia: Fugitive Slave Act of 1850 - 1861〜1865年:南北戦争のさなかだった。村の若者たちが、次々に兵として出ていった。 — Wikipedia: American Civil War - 1863〜1864年:リンカーン大統領が奴隷解放宣言を出したという知らせが、ひそかに伝わってきた。 — Wikipedia: American Civil War - 1865年:戦争が終わり、奴隷制が廃止された。(合衆国憲法修正第13条) — Wikipedia: Thirteenth Amendment to the United States Constitution - 1867年:カナダ連邦が成立し、ケベックはその州のひとつになった。 — Wikipedia: Canadian Confederation - 1874〜1884年:白人の皮狩りの一団が平原に押し寄せ、バイソンの群れは年ごとに小さくなっていった。 — Wikipedia: Bison hunting - 1876年:ブラックヒルズで金が見つかり、合衆国はこの土地を取り上げようとした。リトルビッグホーンで、ラコタとシャイアンの戦士たちがカスターの部隊を破った。 — Wikipedia: Great Sioux War of 1876 - 1890年:12月、ウンデッド・ニーで、合衆国の騎兵隊がラコタの人々に銃を向けた。女性や子どもを含む数百人が殺された。 — Wikipedia: Wounded Knee Massacre - 1892〜1914年:ニューヨーク湾のエリス島の移民受け入れ所を通って、親類や同じ故郷の人々が次々にやってきた。 — Wikipedia: Ellis Island - 1916〜1930年:北部の工場で働き手が足りないという話が広まり、南部から多くの黒人の家族が北へ移っていった。(大移動) — Wikipedia: Great Migration (African American) - 1918〜1919年:恐ろしいインフルエンザ(スペインかぜ)が流行し、学校や教会が閉められた。(この出来事で亡くなる確率 1%) — Wikipedia: Spanish flu(合衆国の死者50万〜85万人、人口の約0.5〜0.8%) - 1929〜1933年:大恐慌のさなかだった。1929年の株価の暴落から不景気が国じゅうに広がり、1933年には働き手の4人に1人が仕事を失っていた。 — Wikipedia: Great Depression in the United States - 1934〜1936年:日照りと砂嵐で、大平原の畑の土が空に舞い上がった。多くの家族が西へ移っていった。(ダストボウル) — Wikipedia: Dust Bowl - 1941〜1945年:アメリカは第二次世界大戦を戦っていた。1941年の真珠湾攻撃のあと、若者たちが次々に兵として出ていった。 — Wikipedia: Attack on Pearl Harbor 設定の注記:小地域の重み(出生の割合のおおまかな仮定):1790年の国勢調査で奴隷にされていた人は人口の約18%、1860年で約13%。奴隷制のもとで生まれる小地域は1864年生まれまで(1865年に修正第13条)。1865年以降は南部の黒人の村や町。先住民の国々(チェロキー、ラコタ)は人口比で小さく、時代とともに減らした。カナダはケベックの農村で代表した。大都市の移民の下町は1840年以降、1900年以降は都市人口が農村を上回るため重みを最大にした。schoolP は就学のおおまかな目安(内部設定)。townFrom は奴隷制の廃止など、町へ出られるようになった年の目安。 #### 東南アジアの村(sea5) 統計: - 1750年から1950年までに生まれた人は、推計で約103億人。人類史で生まれた人の約9%にあたる。 — PRB (2022) - フィリピンの人口は、1799年ごろの推計で約150万人。1939年の国勢調査では約1,600万人になっていた。 — Wikipedia: Demographics of the Philippines - 1930年のオランダ領東インドの国勢調査では、人口は約6,070万人。ローマ字の読み書きができる人は約6%とされた。 — Wikipedia: Dutch East Indies - 1883年のクラカタウの噴火と津波による死者は、公式には36,417人とされている。 — Wikipedia: 1883 eruption of Krakatoa - マラヤのゴム園の面積は、1903年の約2万エーカーから、1922年には約226万エーカーに広がった。 — Wikipedia: Rubber industry in Malaysia 歴史イベント: - 1767年:ビルマの軍が都アユタヤを攻め落とし、都は焼け落ちた。その年のうちに、タークシンが兵を集めて取り返した。 — Wikipedia: Fall of Ayutthaya - 1802年:グエン・フック・アインが西山(タイソン)朝を破って国をひとつにまとめ、フエで皇帝(嘉隆帝)として即位した。 — Wikipedia: Nguyễn dynasty - 1815年:東の島の火山(タンボラ山)が大噴火した。昼でも空が暗くなり、灰が降った。 — Wikipedia: 1815 eruption of Mount Tambora - 1825〜1830年:ディポヌゴロ王子に率いられた人々と、オランダとの戦争が続いていた。戦乱と飢えと病で、多くの人が亡くなった。(ジャワ戦争) — Wikipedia: Java War(ジャワの住民の死者は最大20万人) - 1830〜1840年:オランダの政府が、村の田の一部でサトウキビや藍、コーヒーを育てるよう命じた。(強制栽培制度) — Wikipedia: Cultivation System - 1824〜1826年:イギリスとの戦争に敗れ、王国は西のアラカンや南のテナセリムを奪われた。(第1次英緬戦争) — Wikipedia: Anglo-Burmese wars - 1885年:イギリスの軍が北のマンダレーまで攻めのぼり、王国は滅びた。ビルマ全土がイギリスの支配下に入った。(第3次英緬戦争) — Wikipedia: Anglo-Burmese wars - 1855年:モンクット王のもとで、イギリスと条約が結ばれた。外国の商人が、以前より自由に商いをするようになった。(バウリング条約) — Wikipedia: Bowring Treaty - 1862年:フランスとの戦争に敗れ、南部のビエンホアやザーディンなどがフランスに割譲された。(サイゴン条約) — Wikipedia: Cochinchina campaign - 1883年:8月、西の海峡の火山(クラカタウ)が大噴火した。大きな津波が海沿いの村々をのみこんだ。 — Wikipedia: 1883 eruption of Krakatoa - 1873〜1880年:北のアチェで、オランダとの長い戦争が続いていた。(アチェ戦争) — Wikipedia: Aceh War - 1896年:秘密結社カティプナンが、スペインの支配に対して立ち上がった。(フィリピン革命) — Wikipedia: Philippine Revolution - 1898年:6月12日、アギナルドがカウィットでフィリピンの独立を宣言した。 — Wikipedia: Philippine Revolution - 1899〜1902年:アメリカの軍との戦争が続いていた。村が焼かれ、飢えとコレラが広がった。(米比戦争)(この出来事で亡くなる確率 3%) — Wikipedia: Philippine–American War(民間人の死者は少なくとも20万人。1903年の人口は約764万人) - 1896〜1922年:村のまわりの森が切り開かれ、ゴムの木の農園が次々にできていった。 — Wikipedia: Rubber industry in Malaysia - 1905年:チュラロンコーン王のもとで、奴隷の身分を廃止する法律ができた。 — Wikipedia: Chulalongkorn - 1918〜1919年:恐ろしいかぜ(スペインかぜ)が村々に広がり、多くの人が亡くなった。 — Wikipedia: Spanish flu - 1930〜1932年:米の値段が暴落するなか、サヤー・サンに率いられた農民たちが、イギリスの支配に対して立ち上がった。 — Wikipedia: Saya San rebellion - 1932年:6月、バンコクで人民党が政変を起こし、王の絶対的な支配が終わった。(立憲革命) — Wikipedia: Siamese revolution of 1932 - 1930〜1933年:世界じゅうが不景気になり、砂糖やゴム、米の値段が暴落した。(世界恐慌) — Wikipedia: Great Depression in the United States - 1942〜1945年:日本の軍による占領が続いていた。米が取り立てられ、多くの男たちが労務者(ロームシャ)として連れていかれた。(この出来事で亡くなる確率 5%) — Wikipedia: Japanese occupation of the Dutch East Indies(飢えと強制労働による死者約400万人とする国連の報告); Wikipedia: Dutch East Indies(1930年の人口約6,070万人) - 1942〜1945年:日本の軍による占領が続いていた。米や働き手が取り立てられた。 — Wikipedia: Japanese occupation of the Dutch East Indies - 1945年:2月から3月にかけてのマニラの戦いで、10万人以上の市民が亡くなった。 — Wikipedia: Battle of Manila (1945) - 1942年:日本の軍が攻めこみ、イギリスの軍は退いていった。インド系の人々など数十万人が、徒歩でインドへ逃れていった。 — Wikipedia: Burma campaign - 1945年:北部で大飢饉が起きた。日本とフランスの当局が米を取り立て、田にはジュートなどを植えさせていた。(1945年の飢饉) — Wikipedia: Vietnamese famine of 1945(死者40万〜200万人) - 1945年:8月、ベトミンが各地で権力を握った。9月2日、ホー・チ・ミンがハノイでベトナム民主共和国の独立を宣言した。(八月革命) — Wikipedia: August Revolution - 1945〜1949年:独立を宣言したインドネシア共和国と、戻ってきたオランダとの戦いが続いていた。(インドネシア独立戦争) — Wikipedia: Indonesian National Revolution - 1945〜1949年:1945年8月17日にスカルノとハッタが独立を宣言し、オランダとの戦いが続いていた。(インドネシア独立戦争) — Wikipedia: Indonesian National Revolution 設定の注記:小地域の重み(出生の割合のおおまかな仮定):1850年以降はジャワの人口増加が大きい(1898年のジャワの人口は約2,800万人、1930年のオランダ領東インド全体で約6,070万人)。フィリピンは1799年ごろ約150万人、1939年約1,600万人。ベトナム・シャム・ビルマは19世紀前半の比重を大きめにした。schoolP は寺や僧院、イスラームの塾での学びも含めたおおまかな目安(内部設定)。シャムとビルマは男の子の寺での学びが広く、比較的高めにした。 ### 現代(1950〜2022年) #### 中国の町や村(ea6) 統計: - 1953年の国勢調査で数えられた中国本土の人口は、約5億8,260万人だった。 — Wikipedia: 1953 Chinese census - 2020年の国勢調査では、中国の人口は約14億1,178万人。都市に住む人の割合は63.89%で、10年前より14ポイントあまり増えた。 — 国家統計局「第7回全国人口センサス主要データ」(2021) - 大飢饉(1959〜61年)の死者は、推計で1,500万人から4,600万人とされる。 — Wikipedia: Great Chinese Famine - 農村や辺境へ送られた都市の若者(知識青年)は、約1,700万人にのぼったとされる。 — Wikipedia: Down to the Countryside Movement - 2021年、農村から都市などへ出て働く人(農民工)は2億9,000万人を超えた。 — 国家統計局(BOFIT Weekly Review 50/2022 による) 歴史イベント: - 1950〜1952年:村で土地改革が行われ、地主の田畑が村の家々に分けられた。地主を糾弾する集会も開かれた。(土地改革) — Wikipedia: Land reform in China - 1953〜1956年:田畑や農具、家畜を持ち寄り、村の合作社にまとめることになった。(農業の集団化) — Wikipedia: Land reform in China - 1958年:人民公社がつくられた。村々に公共食堂ができ、鉄をつくるための小さな炉があちこちに築かれた。(大躍進) — Wikipedia: People's commune / Great Leap Forward - 1959〜1961年:穀物の取り立てが続き、村の食べものが尽きた。木の皮や草の根を食べてしのぐ家もあった。(大飢饉)(この出来事で亡くなる確率 4%) — Wikipedia: Great Chinese Famine(死者推計1,500万〜4,600万人。1959年の人口約6.7億人から die を設定) - 1959〜1961年:配給の量が減らされ、食卓にのぼるものが目に見えて少なくなった。(大飢饉) — Wikipedia: Great Chinese Famine - 1966〜1968年:学生たちが紅衛兵を名乗って町を練り歩き、寺や古い看板、家々の古い書物を壊していった。(文化大革命) — Wikipedia: Cultural Revolution - 1968〜1978年:都市の中学や高校を出た若者たちが、農村や辺境へ次々に送られていった。(上山下郷運動) — Wikipedia: Down to the Countryside Movement - 1976年:7月、唐山で大きな地震が起き、町がほとんど崩れ落ちたと伝わってきた。9月には毛沢東が亡くなった。 — Wikipedia: 1976 Tangshan earthquake - 1977〜1978年:大学入試(高考)が、11年ぶりに再開された。 — Wikipedia: Gaokao - 1979〜1983年:生産隊の田畑が家ごとに割り当てられ、決められた分を納めれば、残りは自分の家のものにできるようになった。(農家生産請負制) — Wikipedia: Household responsibility system - 1980〜1983年:夫婦が持てる子どもは原則ひとりとする方針が、各地で厳しく進められた。(一人っ子政策) — Britannica: one-child policy - 2003年:SARS(重症急性呼吸器症候群)という新しい感染症が広がり、学校や職場で毎日熱を測った。 — Wikipedia: 2002–2004 SARS outbreak - 2008年:5月、四川で大きな地震が起き、多くの学校の校舎が倒れた。8月には、北京でオリンピックが開かれた。 — Wikipedia: 2008 Sichuan earthquake / 2008 Summer Olympics - 2020〜2022年:新型コロナウイルスが広がり、武漢をはじめ各地で町の封鎖が行われた。PCR検査の列に、何度も並んだ。 — Wikipedia: COVID-19 pandemic in mainland China 設定の注記:小地域の重み(農村 r / 都市 u)は仮定。都市に住む人の割合は2020年の国勢調査で63.89%(国家統計局)。1950年代はおよそ1割台だったとされるため、出生の割合を 1950〜77年 85:15、1978〜99年 75:25、2000〜22年 55:45 とした(農村のほうが出生率が高いので、人口の割合より農村寄りにしている)。schoolP(中学校に進める確率)と uniP(大学を目指して合格する確率)はおおよその目安。1966〜76年は大学入試(高考)が中止されていたため、その時期に18歳を迎える世代の uniP を下げている(Wikipedia: Gaokao)。大飢饉の die=0.04(農村のみ)は、死者推計1,500万〜4,600万人(新しい推計は3,000万〜4,600万人)を1959年の人口約6.7億人で割った値(約2〜7%)の中ほどから設定した(Wikipedia: Great Chinese Famine)。家業(jobs)は小地域で分けられないため、都市でも農村でもありうるものにした。 #### 日本の町(jp6) 統計: - 1950年以降に生まれた人は、推計で約91億人。人類史で生まれた人の約8%にあたる。 — PRB (2022) - 日本の平均寿命は、1950〜52年には男59.57歳・女62.97歳だった。2022年には男81.05歳・女87.09歳になった。 — 厚生労働省「生命表」「簡易生命表」 - 日本の出生数は、1947〜49年には毎年250万人を超えていた。2022年は約77万人で、統計を取りはじめた1899年以来もっとも少なかった。 — 厚生労働省「人口動態統計」(nippon.com) - 65歳以上の人の割合は、1950年の4.9%から、2022年には29.1%になった。 — 総務省統計局「統計からみた我が国の高齢者」 - 高校への進学率は、1950年の42.5%から、1975年には91.9%になった。 — 文部科学省「学校基本調査」(国立社会保障・人口問題研究所 人口統計資料集 表11-3) 歴史イベント: - 1953〜1955年:テレビの本放送が始まっていた。駅前の街頭テレビには、いつも人だかりができていた。 — Wikipedia: 街頭テレビ(NHK本放送開始1953年2月1日) - 1956年:「もはや戦後ではない」という経済白書の言葉が、流行語になった。 — Wikipedia: もはや戦後ではない - 1959年:伊勢湾台風が上陸し、死者・行方不明者は5,000人を超えた。 — Wikipedia: 伊勢湾台風(消防白書:死者・行方不明者5,098人) - 1964年:10月1日に東海道新幹線が開業し、10日には東京オリンピックが開幕した。 — Wikipedia: 東海道新幹線; 1964年東京オリンピック - 1968年:熊本県水俣で起きた病の原因は、工場の排水に含まれるメチル水銀だと、国が認めた。(水俣病) — Wikipedia: 水俣病 - 1970年:大阪で万国博覧会が開かれ、半年のあいだに6,400万人を超える人が訪れた。 — Wikipedia: 日本万国博覧会 - 1972年:5月15日、沖縄が日本に返還された。 — Wikipedia: 沖縄返還 - 1973〜1974年:石油危機で物価が跳ね上がった。店からトイレットペーパーを買い占める騒ぎも起きた。(オイルショック) — Wikipedia: オイルショック(1974年の消費者物価上昇率23%) - 1987〜1990年:土地や株の値段が、上がりつづけていた。(バブル景気) — Wikipedia: バブル景気 - 1991〜1993年:株価と土地の値段が下がりはじめ、景気が冷えこんでいった。(バブル崩壊) — Wikipedia: バブル景気 - 1995年:1月17日の早朝、阪神・淡路大震災が起き、6,434人が亡くなった。 — Wikipedia: 阪神・淡路大震災 - 2008〜2009年:アメリカの大手証券会社の破綻をきっかけに不況が広がり、派遣の働き手が次々に契約を打ち切られた。(リーマン・ショック) — Wikipedia: リーマン・ショック - 2011年:3月11日、東日本大震災が起きた。大津波が東北の沿岸を襲い、原子力発電所の事故も起きた。 — Wikipedia: 東日本大震災(警察庁:死者15,900人、行方不明者2,520人) - 2020〜2021年:新型コロナウイルスの流行が広がっていた。2020年4月には、初めての緊急事態宣言が出された。 — Wikipedia: 日本における2019年コロナウイルス感染症の流行状況 設定の注記:schoolP は高校等進学率、uniP は大学・短大進学率(過年度卒を含む)。出典:国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」表11-3(文部科学省「学校基本調査」)。高校:1950年42.5%、1955年51.5%、1960年57.7%、1965年70.7%、1970年82.1%、1975年91.9%、1980年94.2%、1990年95.1%、2000年97.0%、2010年98.0%。大学+短大:1955年10.1%、1960年10.3%、1965年16.9%、1970年23.6%、1975年38.4%、1980年37.4%、1990年36.3%、1995年45.2%、2000年49.1%、2005年51.5%、2010年56.8%、2020年58.6%、2024年62.2%。vars の年は「生まれた年+15」で選ばれるため、uniP は大学に入る年(+18)に合わせて3年ずらした。名前は明治安田生命の生まれ年別ランキングで1位になった名前などから、生まれた年代ごとに選んだ(家族全員が同じ年代の名前の組から選ばれる点は、エンジンの仕様による)。 #### 南アジアの町や村(sa6) 統計: - 1950年以降に生まれた人は、推計で約91億人。人類史で生まれた人の約8%にあたる。 — PRB (2022) - 1951年の国勢調査で数えられたインドの人口は約3億6,109万人。読み書きできる人は約18%だった。 — Wikipedia: 1951 census of India - 2011年の国勢調査では、インドの人口は約12億1,000万人。読み書きできる人の割合は74.04%になった。 — インド統計・計画実施省(MoSPI)Statistical Year Book / Wikipedia: 2011 census of India(確定値 1,210,854,977人) - ボーラ・サイクロンの死者は、少なくとも30万人、多ければ50万人に達したと推計されている。 — Wikipedia: 1970 Bhola cyclone - ケーララ州から国外へ働きに出ていた人は、2008年に約219万人。その88.5%が湾岸の国々で働いていた。 — Middle East Institute: Kerala Emigrants in the Gulf 歴史イベント: - 1966〜1972年:高収量の小麦や米の種と化学肥料が村に入ってきた。収穫が目に見えて増えた家もあった。(緑の革命) — Wikipedia: Green Revolution in India - 1970年:11月、巨大なサイクロンが海沿いを襲い、高潮で多くの村が流された。(ボーラ・サイクロン) — Wikipedia: 1970 Bhola cyclone - 1971年:3月、パキスタン軍による弾圧が始まり、多くの人が殺された。家を捨ててインドへ逃れる人の列が続いた。12月、バングラデシュが独立した。(バングラデシュ独立戦争) — Wikipedia: Bangladesh Liberation War - 1971年:12月、東パキスタンでの戦争に敗れ、東パキスタンはバングラデシュとして独立した。 — Wikipedia: Bangladesh Liberation War - 1975〜1985年:湾岸の産油国へ働きに出る人が増え、仕送りで建てた新しい家が目立つようになった。 — Middle East Institute: Kerala Emigrants in the Gulf - 1984年:12月、ボーパールの農薬工場(ユニオン・カーバイド社)から有毒なガスが漏れ、多くの住民が亡くなった。(ボーパール化学工場事故) — Wikipedia: Bhopal disaster - 1991〜1994年:経済の自由化が進み、外国の会社の看板や製品が町に目立ちはじめた。(1991年の経済自由化) — Wikipedia: 1991 Indian economic crisis - 2001年:1月26日、西部のグジャラートで大地震が起き、2万人以上が亡くなった。 — Wikipedia: 2001 Gujarat earthquake - 2005年:10月、北部のカシミール地方で大地震が起き、8万人以上が亡くなった。 — Wikipedia: 2005 Kashmir earthquake - 2013年:4月、ダッカ近郊のサバールで、縫製工場の入ったビル(ラナ・プラザ)が崩れ、1,134人が亡くなった。 — Wikipedia: 2013 Savar building collapse - 2022年:夏のモンスーンの豪雨で国の広い範囲が水につかり、約3,300万人が被害を受けた。 — Wikipedia: 2022 Pakistan floods - 2020年:新型コロナウイルスが広がり、外出が禁じられた。仕事を失った人々が、故郷の村へ帰っていった。 — WHO / Wikipedia: COVID-19 pandemic in South Asia - 2021年:4月から5月にかけて、新型コロナウイルスの感染が急に広がり、町の病院では酸素が足りなくなった。(デルタ株の流行) — Reuters (2021年5月1日): India's daily COVID-19 cases pass 400,000 - 2021年:4月から5月にかけて、新型コロナウイルスの感染者が一日40万人を超え、酸素ボンベを求める人が町を走り回った。(デルタ株の流行) — Reuters (2021年5月1日): India's daily COVID-19 cases pass 400,000 設定の注記:小地域の重みは仮定。インド・パキスタン・バングラデシュのおおよその人口比(インド約8割、パキスタンとバングラデシュが各1割強)と、インドの都市人口の割合(1951年の2割弱から2011年の約3割へ)をもとに、出生の割合を 1950〜85年 インド農村64・インド都市13・パキスタン11・東パキスタン/バングラデシュ12、1986〜2022年 54・21・13・12 とした。schoolP・uniP はおおよその目安(インドの識字率は1951年に約18%、2011年に74.04%)。女子の就学率の低さは、文の内容で表している(engine は性別ごとの schoolP を持たない)。湾岸への出稼ぎ(abroad)は、ケーララなどで1970年代はじめから急に増えたとされる(MEI: Kerala Emigrants in the Gulf)ため、15歳時点で1972年以降(バングラデシュは1975年以降)に限った。 #### 西アジア・北アフリカの町や村(wa6) 統計: - 1950年以降に生まれた人は、推計で約91億人。人類史で生まれた人の約8%にあたる。 — PRB (2022) - 1973年の石油危機で、原油の値段は1バレル約3ドルから12ドル近くに上がった。 — Wikipedia: 1973 oil crisis - アスワン・ハイ・ダムの湖に沈んだ土地から、10万〜12万人のヌビアの人々が移住させられた。 — Wikipedia: Aswan Dam - イラン・イラク戦争(1980〜88年)の死者は、約50万人とされる。 — Wikipedia: Iran–Iraq War - 2022年末、シリアから周辺の国々へ逃れて登録された難民は約540万人。国内で家を追われた人は約680万人にのぼった。 — UNHCR Global Focus: Syria situation (2022) 歴史イベント: - 1956〜1962年:アルジェリアで、フランスからの独立を求める戦争が続いていた。1962年7月、アルジェリアは独立した。(アルジェリア戦争、1954〜62年) — Wikipedia: Algerian War - 1961〜1965年:西ドイツと労働者を送り出す協定が結ばれ、多くの若者がドイツの工場へ働きに出ていった。 — Deutschland Museum: 1961-10-30 Guest workers - 1964〜1970年:上流のアスワンに巨大なダム(アスワン・ハイ・ダム)が築かれた。毎年のナイルの洪水が来なくなり、湖に沈む土地のヌビアの人々は移住させられた。 — Wikipedia: Aswan Dam - 1974〜1980年:石油の値段が急に上がり、町に新しい道路や学校、病院が次々に建てられた。(石油危機と石油ブーム) — Wikipedia: 1973 oil crisis - 1975〜1990年:レバノンで内戦が続いていた。ベイルートの町は、東と西に分かれていた。(レバノン内戦、1975〜90年) — Wikipedia: Lebanese Civil War - 1978〜1979年:国王に反対するデモが全国に広がった。1979年2月、王政が倒れ、3月の国民投票でイスラーム共和国が成立した。(イラン革命) — Wikipedia: Iranian Revolution - 1980〜1988年:イラクとの戦争が続き、多くの若者が前線へ送られた。(イラン・イラク戦争、1980〜88年) — Wikipedia: Iran–Iraq War - 1980〜1988年:イランとの戦争が続き、兄弟や近所の男たちが次々に兵として呼ばれた。(イラン・イラク戦争、1980〜88年) — Wikipedia: Iran–Iraq War - 1990年:8月、イラク軍がクウェートに攻めこんだ。翌年1月、多国籍軍による空爆が始まった。(湾岸戦争) — Wikipedia: Gulf War - 1999年:8月、イズミット付近で大地震が起き、1万7,000人以上が亡くなった。 — Wikipedia: 1999 İzmit earthquake - 2003年:3月、アメリカなどの軍がイラクに攻めこみ、4月にバグダードが陥落した。その後も爆弾テロや宗派間の争いが何年も続いた。(イラク戦争) — Wikipedia: Iraq War - 2011年:チュニジアで始まった抗議のデモが各地に広がり、2月にはエジプトのムバーラク大統領が辞任した。(アラブの春) — Wikipedia: Arab Spring - 2012〜2022年:シリアで内戦が続き、多くの人々が家を追われ、トルコやレバノン、ヨルダンなどへ逃れていった。(シリア内戦) — Wikipedia: Arab Spring / UNHCR - 2020〜2021年:新型コロナウイルスが広がり、モスクが閉じられ、夜間の外出が禁じられた。 — WHO 設定の注記:小地域の重みは仮定。1980年代なかばのおおよその人口(エジプト約5,000万、マグリブ4か国約5,500万、トルコ約5,000万、イラン約4,800万、イラク約1,600万、シリア・レバノン・ヨルダン・パレスチナ約1,800万、アラビア半島約2,800万)の比を、出生の割合として期間全体に使った(UN WPP の概数。確認できた出典つきの数字ではないため、画面には出さない)。イスラエルは独立の小地域として描いていない。schoolP・uniP はおおよその目安。abroad は、トルコからドイツへ(1961年の募集協定以降)、マグリブからヨーロッパへ、エジプトやレバント(地中海東岸)から湾岸の国々へ(1973年の石油危機のあと)の出稼ぎが多かったことによる。 #### ヨーロッパの町(eu6) 統計: - 1950年から2022年までに生まれた人は、推計で約91億人。人類史で生まれた人の約8%にあたる。 — PRB (2022) - ベルリンの壁では、1961年から1989年までに少なくとも140人が命を落とした。 — Berlin Wall Memorial / Chronik der Mauer - 西ドイツには1973年までに約1,400万人が働きに来て、そのうち1,100万人あまりが故郷へ帰った。1973年の外国人労働者は約260万人だった。 — bpb: Anwerbeabkommen mit Italien - 旧ユーゴスラビアの戦争では、1991年から2000年までに14万人以上が亡くなり、400万人近くが家を追われた。 — ICTJ: Former Yugoslavia - WHOのヨーロッパ地域で報告された新型コロナウイルスによる死者は、2022年5月に200万人を超えた。 — WHO Europe (2022年5月12日) 歴史イベント: - 1956年:ハンガリーで人々が政府に抗議して立ち上がったが、ソ連軍の戦車によって鎮圧された。(ハンガリー動乱) — Britannica: Hungarian Revolution of 1956 - 1956〜1973年:町の若者たちが契約を結び、西ドイツやスイスの工場へ働きに出ていった。 — bpb: Anwerbeabkommen mit Italien (1955) / Anwerbestopp 1973 - 1961年:ベルリンの東西の境に、ある夜のうちに有刺鉄線が張られ、やがて壁が築かれた。(ベルリンの壁) — Britannica: Berlin Wall - 1968年:パリで学生や労働者が大規模なデモとストライキを起こし、各地の大学にも広がった。(五月危機) — Britannica: Paris student revolt of 1968 - 1968年:チェコスロバキアで始まった改革(プラハの春)が、ソ連などワルシャワ条約機構の軍の侵攻で押しつぶされた。 — Britannica: Prague Spring - 1973〜1974年:石油の値段が急に上がった。日曜日の車の運転が禁じられた国もあり、人々は車の消えた道路を歩いたり自転車で走ったりした。(石油危機) — Wikipedia: 1973 oil crisis - 1974〜1975年:ポルトガルで軍の若い将校たちが独裁政権を倒し、翌年にはスペインでフランコが亡くなった。南ヨーロッパの国々で民主化が進んでいった。 — Britannica: Carnation Revolution / Francisco Franco - 1986年:ウクライナのチェルノブイリ原子力発電所で爆発事故が起きた。周辺の約11万6,000人が、住んでいた町や村を離れた。 — IAEA: Chernobyl's Legacy (2006) - 1989年:ベルリンの壁が開かれた。東と西の人々が壁の上にのぼり、抱き合う姿がテレビに映った。 — Britannica: Berlin Wall - 1991年:ソビエト連邦が解体され、15の国に分かれた。給料の遅れと物価の上昇が、何年も続いた。 — Britannica: collapse of the Soviet Union - 1991〜2001年:旧ユーゴスラビアの国々で戦争が続き、多くの人が家を追われた。(ユーゴスラビア紛争) — ICTJ: Former Yugoslavia - 2008〜2010年:アメリカの大手銀行の破綻をきっかけに、世界的な不況が広がった。勤め先の仕事が減り、解雇の知らせが相次いだ。 — Britannica: financial crisis of 2007–08 - 2020〜2021年:新型コロナウイルスの感染が広がり、店や学校が閉まった。外出が制限され、家族とも画面越しに話した。 — WHO Europe (2022) - 2022年:ロシア軍がウクライナへの全面的な侵攻を始めた。戦火を逃れた数百万の人々が、国境を越えてヨーロッパ各地へ避難していった。 — UNHCR: Ukraine situation (2022) 設定の注記:小地域の重みは仮定。1950年代の各国のおおよその出生数(西・北ヨーロッパ約3.4百万、南ヨーロッパ約1.9百万、東ドイツ・東欧・ユーゴスラビア・ソ連のヨーロッパ部分で約6百万)をもとに、1990年以降は東側の出生の急減を見こんで東の比率を下げた。ユーゴスラビアと東ドイツは『東』に含める。schoolP は12歳ごろに『上の学校』(ギムナジウム・リセ・グラマースクール、東側では8年制・10年制の一般学校の上級)へ進む割合の目安、uniP は高等教育への進学率の目安で、いずれも内部の設定(数字は画面に出ない)。 #### サハラ以南アフリカの町や村(af6) 統計: - アフリカの平均寿命は、1950〜55年の約37.5歳から、2010〜15年には約60.2歳に延びた。 — Wikipedia: Demographics of Africa(UN WPP) - アフリカの人口は、2009年に10億人を超えた。 — Wikipedia: Demographics of Africa - 2011年、サハラ以南アフリカでHIVとともに生きる人は約2,350万人と推計された。抗HIV薬の治療を受ける人は、2005年の100万人から2012年には710万人に増えた。 — Wikipedia: HIV/AIDS in Africa(UNAIDS) - ルワンダ虐殺で殺されたツチの人々は、多くの研究で50万〜66万2,000人と推計されている。 — Wikipedia: Rwandan genocide - 西アフリカのエボラ出血熱の流行(2014〜16年)では、2万8,616人が感染し、1万1,310人が亡くなった。 — Wikipedia: Western African Ebola virus epidemic 歴史イベント: - 1952〜1959年:ケニアで、土地を奪われた人々の抵抗(マウマウ)が広がった。イギリスの植民地政府は非常事態を宣言し、多くの人を収容所に入れ、村ごと囲いの中に移した。 — Wikipedia: Mau Mau rebellion - 1957年:3月6日、ゴールドコーストがガーナとして独立した。その知らせは西アフリカ各地に伝わった。 — Wikipedia: Decolonisation of Africa - 1960年:この年、17の国が植民地支配から独立した。(アフリカの年) — Wikipedia: Year of Africa - 1967〜1970年:ナイジェリアで内戦が続いた。東部のビアフラは政府軍に封鎖され、多くの人が飢えで亡くなった。(ナイジェリア内戦) — Wikipedia: Nigerian Civil War - 1968〜1974年:雨の少ない年が何年も続き、北のサヘルでは家畜の3分の1が死に、多くの人が亡くなった。(サヘルの大干ばつ) — Wikipedia: Sahel drought - 1976年:6月、南アフリカのソウェトで、アフリカーンス語での授業の押しつけに抗議する生徒たちのデモに、警察が発砲した。(ソウェト蜂起) — Wikipedia: Soweto uprising - 1983〜1985年:エチオピア北部が大飢饉に見舞われた。日照りに内戦と政府の政策が重なり、30万人から120万人が亡くなったと推計されている。 — Wikipedia: 1983–1985 famine in Ethiopia - 1990〜2005年:エイズの流行が広がり、働き盛りの大人が次々に亡くなった。祖父母が孫を育てる家が増えた。 — Wikipedia: HIV/AIDS in Africa - 1994年:4月から7月にかけて、ルワンダで、フツ至上主義の民兵や軍がツチの人々と、虐殺に反対したフツの人々を殺していった。50万人以上が命を奪われた。(ルワンダ虐殺) — Wikipedia: Rwandan genocide - 1994年:4月、南アフリカで、すべての人種が投票できる初めての選挙が行われ、ネルソン・マンデラが大統領に選ばれた。(アパルトヘイトの終わり) — Wikipedia: 1994 South African general election - 1998〜2003年:コンゴで、周りの国々を巻きこんだ戦争が続いた。多くの人が家を追われ、病気や飢えで亡くなった。(第二次コンゴ戦争) — Wikipedia: Second Congo War - 2007〜2012年:携帯電話でお金を送れる仕組み(M-Pesa)がケニアで始まり、町でも村でも使われるようになった。 — Wikipedia: M-Pesa - 2014〜2016年:ギニア、リベリア、シエラレオネでエボラ出血熱が広がり、1万1,000人以上が亡くなった。 — Wikipedia: Western African Ebola virus epidemic - 2020〜2021年:新型コロナウイルスが広がり、学校が閉じられ、夜間の外出が禁じられた。 — WHO 設定の注記:小地域の重みは仮定。1980年代なかばのおおよその人口比(西アフリカはナイジェリアを含めて約4割弱、東アフリカはエチオピア・ケニア・タンザニア・ウガンダ・ルワンダなどで約4割弱、中部・南部はコンゴ、アンゴラ、モザンビーク、ジンバブエ、南アフリカなどで約4分の1)を、出生の割合として期間全体に使った(UN WPP の概数。画面には出さない)。schoolP(中等学校に進める確率)と uniP はおおよその目安。abroad は、西アフリカからはヨーロッパ(フランス・イギリスなど)、中部・南部からは南アフリカの鉱山への出稼ぎ、東アフリカからは2000年前後から増えた湾岸の国々への出稼ぎによる。名前は、小地域ごとに一つの言語・宗教にかたよらない範囲で、よく見られるものを選んだ(家族の中で名前の系統が混ざることがある)。 #### 中南米の町や村(am6) 統計: - 1950年から2022年までに生まれた人は、推計で約91億人。人類史で生まれた人の約8%にあたる。 — PRB (2022) - 1950年、中南米の人口のうち都市に住む人は約4割だった。2018年には約81%になった。 — Atlantic Council (2014) / UN DESA (2018), CEPAL - 中南米の平均寿命は、1950年代はじめの約52歳から、2019年には約75歳にのびた。COVID-19の影響で、2021年には約72歳に下がった。 — PRB (2014) / CEPAL (2022) - 2010年のハイチの地震の死者は、ハイチ政府の発表で30万人を超える。ほかの推計はそれより少なく、正確な数はわかっていない。 — Britannica: 2010 Haiti earthquake - 中南米の新型コロナウイルスによる死者は、2021年5月に100万人を超えた。 — Reuters (2021年5月21日) 歴史イベント: - 1959年:キューバで、カストロらの革命軍がバティスタ政権を倒したと、ラジオが伝えた。(キューバ革命) — Britannica: Cuban Revolution - 1955〜1980年:村から都会へ出る人が増え、町はずれの丘や空き地に、住む人たちが自分で家を建てた地区が広がっていた。 — Atlantic Council (2014): Urbanization in Latin America - 1964年:ブラジルで軍がクーデターを起こした。軍事政権は1985年まで続いた。 — Britannica: Brazil – military regime - 1973年:チリで軍がクーデターを起こし、アジェンデ大統領の政権が倒された。反対派とされた多くの人々が、軍に捕らえられた。 — Britannica: Chile – the Pinochet regime - 1976〜1983年:アルゼンチンの軍事政権のもとで、政府に反対したとされる多くの人々が軍に連れ去られ、行方がわからなくなっていた。母親たちが毎週、広場で子どもの行方を問い続けた。(五月広場の母たち) — Britannica: Dirty War / Mothers of the Plaza de Mayo - 1979〜1992年:中米のグアテマラやエルサルバドルで内戦が続いていた。多くの人が家を追われ、北へ逃れていった。 — Britannica: Salvadoran Civil War / Guatemalan Civil War - 1982〜1989年:国の借金が返せなくなり、通貨の価値が暴落した。給料の価値が目減りし、職を失う人が増えた。(債務危機・「失われた10年」) — Britannica: Latin American debt crisis - 1985年:9月19日の朝、メキシコシティを大地震が襲い、多くの建物が崩れた。近所の人たちが、素手でがれきをかき分けて人を助け出した。 — Britannica: Mexico City earthquake of 1985 - 1983〜1990年:隣の国々でも軍事政権が終わり、長いあいだ行われなかった選挙で大統領が選ばれていった。 — Britannica: Argentina (1983) / Brazil (1985) / Chile (1990) - 1998年:ハリケーン・ミッチが中米を襲った。ホンジュラスやニカラグアで洪水と土砂崩れが起き、1万1,000人以上が亡くなった。 — Britannica: Hurricane Mitch - 2001〜2002年:アルゼンチンで経済危機が起き、銀行の預金が引き出せなくなった。人々は鍋をたたいて抗議した。 — Britannica: Argentina – economic crisis of 2001–02 - 2010年:1月12日、ハイチで大地震が起き、首都ポルトープランスの多くの建物が崩れた。各地から救援の人々が駆けつけた。 — Britannica: 2010 Haiti earthquake - 2016〜2022年:食べものや薬の不足が続くベネズエラから、多くの人が国外へ逃れていた。町にも、ベネズエラから来た家族が住むようになった。 — UNHCR: Venezuela situation - 2020〜2021年:新型コロナウイルスの感染が広がった。外出が制限され、その日の稼ぎで暮らす人々の仕事がなくなった。 — CEPAL (2022) / Reuters (2021) 設定の注記:小地域の重みは仮定。1950〜2020年の中南米の出生のうち、メキシコ・中米・カリブがおよそ3分の1、南米(ブラジルが約半分)がおよそ3分の2を占めるとみた。schoolP は中学校(セクンダリア)へ進む割合、uniP は大学など高等教育へ進む割合の目安で、内部の設定(数字は画面に出ない)。abroad はアメリカへの移住・出稼ぎ(メキシコ・中米は1950年代から、南米は1970年代から)と、1990年代末からのスペインへの移住を反映。 #### 北アメリカの町(na6) 統計: - 1950年から2022年までに生まれた人は、推計で約91億人。人類史で生まれた人の約8%にあたる。 — PRB (2022) - アメリカの平均寿命は、1950年の68.2歳から、2015年には78.8歳にのびた。 — CDC/NCHS, Health, United States 2016, Table 15 - 2001年9月11日の同時多発テロでは、2,977人が亡くなった。 — 9/11 Memorial & Museum - カナダでは15万人を超える先住民の子どもたちが、家族から引き離されて寄宿学校に入れられた。 — Government of Canada: Statement of apology (2008) - アメリカの新型コロナウイルスによる死者は、2022年5月に100万人に達した。 — CDC (2022年5月16日) 歴史イベント: - 1954年:最高裁判所が、公立学校で黒人と白人の子どもを分けることは憲法に反すると判断した。(ブラウン判決) — Britannica: Brown v. Board of Education of Topeka - 1955〜1956年:アラバマ州モンゴメリーで、ローザ・パークスの逮捕をきっかけに、黒人の人々が1年以上バスに乗らずに抗議を続けた。 — Britannica: Montgomery bus boycott - 1962年:キューバに置かれたソ連のミサイルをめぐって、核戦争が起きるかもしれないと、ニュースが連日伝えた。(キューバ危機) — Britannica: Cuban missile crisis - 1963年:ケネディ大統領が、テキサス州ダラスで撃たれて亡くなった。学校では授業が止まり、先生が知らせを伝えた。 — Britannica: assassination of John F. Kennedy - 1964〜1965年:長い運動のすえ、人種による差別を禁じる公民権法と、投票の権利を守る投票権法が成立した。 — Britannica: Civil Rights Act of 1964 / Voting Rights Act - 1968年:キング牧師が、テネシー州メンフィスで暗殺された。各地の都市で、抗議と暴動が起きた。 — Britannica: Martin Luther King, Jr. - 1965〜1973年:ベトナムでの戦争が激しくなり、徴兵された若者たちが次々に戦地へ送られていた。反戦のデモも広がっていた。 — National Archives: Vietnam War U.S. Military Fatal Casualty Statistics - 1969年:アポロ11号が月に着陸した。テレビの前で、人間が月面を歩く姿を見た。 — Britannica: Apollo 11 - 1973〜1974年:アラブの産油国が石油の輸出を止め、ガソリンの値段が跳ね上がった。(石油危機) — Britannica: oil crisis - 1995年:ケベック州で、カナダから独立するかどうかを問う住民投票が行われ、わずかな差で否決された。 — Britannica: Quebec referendum - 2001年:9月11日、ハイジャックされた旅客機が、ニューヨークの世界貿易センタービルなどに突入した。(同時多発テロ) — Britannica: September 11 attacks - 2008〜2009年:大手の投資銀行が破綻し、不況が広がった。家や仕事を失う人が相次いだ。 — Britannica: financial crisis of 2007–08 - 2008年:首相が議会で、先住民の子どもたちを家族から引き離して寄宿学校に入れてきた政策について、正式に謝罪した。 — Government of Canada: Statement of apology (2008年6月11日) - 2020〜2021年:新型コロナウイルスの感染が広がり、学校や店が閉まった。病院は患者であふれた。 — CDC (2022) 設定の注記:小地域の重みは仮定。1950年代以降、アメリカ合衆国とカナダの出生数の比はおよそ9対1(1950年ごろ、アメリカ約360万、カナダ約37万)。schoolP は高校へ進む割合、uniP は大学やコミュニティカレッジへ進む割合の目安で、内部の設定(数字は画面に出ない)。家族の人種・出自は特定せず、移民の家族や黒人の家族、先住民の家族など、だれが生まれても読める文にした。 #### 東南アジアの町や村(sea6) 統計: - 1950年から2022年までに生まれた人は、推計で約91億人。人類史で生まれた人の約8%にあたる。 — PRB (2022) - 1975年から1979年までのポル・ポト政権のもとで、約170万人、カンボジアの人口の約21%が亡くなったと推計されている。 — Yale University Cambodian Genocide Program - 1965〜66年のインドネシアの虐殺では、少なくとも50万人が殺害されたと多くの研究者が推計している。一時期でも投獄された人は、最大で150万人にのぼる。 — Wikipedia: Indonesian mass killings of 1965–66 - 2004年のインド洋大津波では、少なくとも22万5,000人が亡くなった。インドネシアでは約17万人が亡くなるか行方不明になり、その多くがアチェ州の人々だった。 — Britannica: Indian Ocean tsunami of 2004 / Wikipedia: 2004 Indian Ocean earthquake and tsunami(インドネシア:死者130,736人、行方不明37,063人) - 2022年に外国で働いていたフィリピン人は、推計で196万人。その約6割が女性だった。 — Philippine Statistics Authority (2022 Survey on Overseas Filipinos) 歴史イベント: - 1965〜1975年:アメリカ軍の爆撃と地上の戦闘が続いていた。多くの村が焼かれ、人々が家を追われた。(ベトナム戦争)(この出来事で亡くなる確率 2%) — Hirschman, Preston & Loi (1995): 1965〜75年のベトナム人の戦争関連死は約88万人(人口の約2%)と推計(Wikipedia: Vietnam War casualties) - 1975年:北ベトナムの軍がサイゴンに入り、戦争が終わった。翌年、国はひとつになった。 — Britannica: Fall of Saigon - 1975〜1979年:クメール・ルージュ(ポル・ポト政権)のもとで、町の人々は農村へ追い立てられ、家族は引き離されて集団農場で働かされていた。学校も寺も市場も閉ざされた。(この出来事で亡くなる確率 21%) — Yale University Cambodian Genocide Program: 約170万人(人口の21%)が死亡 - 1965〜1966年:1965年9月30日の事件のあと、共産党員やその支持者とされた人々が、軍とそれに協力した民兵によって各地で殺害され、多くの人が捕らえられた。 — Wikipedia: Indonesian mass killings of 1965–66 - 1967年:タイのバンコクで、東南アジアの5か国が東南アジア諸国連合(ASEAN)をつくった。 — Britannica: ASEAN - 1972年:マルコス大統領が全土に戒厳令を敷いた。新聞社や放送局が閉鎖され、政府を批判した人々が捕らえられた。 — Britannica: Ferdinand Marcos - 1986年:マニラのエドサ通りを大勢の人々が埋めつくし、マルコス政権が倒れた。(ピープルパワー革命) — Britannica: People Power Revolution - 1997〜1998年:タイの通貨バーツの暴落をきっかけに、通貨危機がアジアの国々に広がった。物価が上がり、職を失う人が増えた。(アジア通貨危機) — Britannica: Asian financial crisis - 1998年:物価の高騰と抗議の広がりのなかで、30年以上続いたスハルト大統領の政権が終わった。 — Britannica: Suharto - 2004年:12月26日、スマトラ島沖で大地震が起き、大津波がアチェの町や村を襲った。 — Britannica: Indian Ocean tsunami of 2004 - 2008年:サイクロン・ナルギスがミャンマーのエーヤワディー川の三角州を襲い、13万人以上が亡くなるか行方不明になった。 — Wikipedia: Cyclone Nargis - 2013年:台風ハイエン(ヨランダ)がレイテ島などを襲い、高潮が海辺の町をのみこんだ。6,300人が亡くなった。 — NDRRMC (Philippine Daily Inquirer, 2014) - 2020〜2021年:新型コロナウイルスの感染が広がり、町が封鎖された。外国で働いていた家族の多くが、仕事を失って帰ってきた。 — WHO (2020) 設定の注記:小地域の重みは仮定。1950〜2020年の東南アジアの出生のうち、インドネシアが約4割、フィリピンが約16%、ベトナム・ラオスが約16%、カンボジアが約3%、タイ・ミャンマー・マレーシアが約4分の1とみた(各国の人口と出生率の概数から)。シンガポール・ブルネイ・東ティモールは数が少ないため個別には扱わない。schoolP は中学校へ進む割合、uniP は大学など高等教育へ進む割合の目安で、内部の設定(数字は画面に出ない)。カンボジアの1975〜79年は学校が閉鎖されたため低くしている。